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no.59 生きたデュルケームを求めて

 日本では政治や行政との関わりのなかで、公文書のあり方があらためて議論となったことは記憶に新しいが、フランスには国レベルでの国立公文書館Archives nationalesをはじめとして、それぞれの自治体や官公庁に公文書がしっかりと保存されている。またフランスには1821年設立の国立古文書学校École nationale des chartesがグランド・ゼコールの一つとしてあり、その卒業生はchartisteあるいは同校卒業生の称号であるarchiviste-paléographe(古文書学士)と呼ばれ、高い社会的評価を得ていることはよく知られているところであろう。  

 ところで国立公文書館には、デュルケームに関する書類も残されており、これらを実際に閲覧することが可能である。そうした文書の中には、デュルケームの手書きによるものも残されており、公的な文書だからということもあろうが、内容とは別に、デュルケームが読みやすい端正な筆致の書き手であったことなども知ることができる。その一部は例えば、ジャン・イズーレが着任することとなる1897年のコレージュ・ド・フランスの社会哲学講座のポストをめぐるものがこれまでにも公刊されたりしているが(『フランス社会学評論』1979年20巻1号)、実際に手に取って見た中でとりわけ印象に残っているものとして、1917年にデュルケームが提出している休暇願がある。これらは実は病気による休暇の願いなのだが、後世のわれわれはデュルケームの没年月日を知っており、死が近づいてきている日付のものはそれ以前のものと比べてペンの勢いが衰えてきているようにも見え、胸に迫るものがある。

 このように、デュルケーム自身の手書きの書類を通じて、実際に生きていたデュルケームの一端を感じ取り、追体験することができる。またそれが可能となるのも、一世紀以上を経ても公文書が残されて閲覧に供されているおかげであると言えよう。以上、本コラム欄のタイトルである“A la recherche de Durkheim perdu”の字義通りの意味に触発されて記させていただきました。
白鳥義彦(神戸大学) 2018.9.5


no.58 La Fête des Voisins

 「La Fête des Voisins」あるいは「Neighbours’ Day」(総じて通称、隣人祭り)という取り組みを、ご存知だろうか。私は、静岡市清水区・清水駅前銀座商店街の視察で初めて知った。その取り組みは、フランスのアナターズ・ペリファンが立ち上げたものである。「1999年フランス、パリの小さなアパートでおきた高齢者の孤独死をきっかけに、住民たちが建物の中庭に集まり、交流のための食事会を行ったことから始まりました。現在ではヨーロッパ29か国800万人が参加する市民運動となり、2008年には日本でも初めての『隣人祭り』が東京・新宿で開催されています」(https://www.rinjinmatsuri.jp/about/messagePerifan.html)。

  その視察の二日後である2011年3月11日。「東日本大震災」が起こり、それを通じて、われわれに痛感させられたキーワードが「絆」、「つながり」、「信頼」などである。

 2018年3月6日。
 パリを訪れた際、「La Fête des Voisins」事務所(17E Rue Saussier Leroy)に伺い、このétrangerを迎え入れていただき、さらに、「隣人祭り」が初めて開催された場所(Ligne3 Porte de Champerret/Rue Vernier)も、快く教えてくれた。

  ネット利用が日常生活の不可欠な一部分をしめる中、「隣人祭り」の取り組みは、現代社会における「お隣さんとのつながり」の難しさを、われわれに切実に伝えてくれている。 

 International Neighbours’ Dayは、2018年で15周年を迎える。これを契機に、「もう一度」、地域でのつながりのあり「方」を考えてみたい。

Ligne3 Porte de Champerret(2018年3月筆者撮影)


Rue Vernier付近の街並み(2018年3月筆者撮影)
古市太郎(文京学院大学) 2018.8.15


no.57 ノブレスオブリージュの瓦解

 高学歴者といえば、低学歴者層に比べて優位にいることを比較されることが多く、彼らの就業状況やエートスについて研究されることは少ない。しかし、ブルデューやデュルベラが言うように、フランスは高等教育を積み重ねても学歴インフレ状態となり、就職にも窮するような状況下にある学生たちもいる。選抜的な数学等の理系科目の試験をクリアした理系の学生への評価は高いが、文系の学生は高等教育年数を重ねても厳しい状況に置かれがちである。さらに理系分野出身者の中でも、「エンジニア」資格取得者はエリート層と考えられ、私が参画した2012年に行われたエンジニアリングスクール出身者への調査では、その資格取得ルートは両親の職種に影響を受けていた。

 現在、フランスは国際競争力強化のために「エンジニア」資格取得者の増員を図っており、資格が大衆化される中、エートスも自ずと変化していくだろう。しかし、中心的な配属地、高地位についているのはトップ校のグランゼコール出身者であり、その他のエンジニアリングスクール出身者と有意な差があった。「エンジニア」資格取得者はエリートとして優遇される代わりにノブレスオブリージュを求められる仕事に就くことが多かったが、トップ7校出身者の進路を見ると、若い世代ほど高所得を期待できる金融保険業への就職が増えている。そしてかつてグランゼコール出身者が抱いていた社会貢献に対する意識は、若い世代ほど低い。

 また、フランスの管理職・専門職の労働時間は非常に長く深夜に就業したり、週末に会社に呼び出された経験がある人々がかなり存在する。長時間労働により心身が疲弊している彼らの中で、名誉と引き換えに無理な頑張りも引き受けるというかつてのノブレスオブリージュは瓦解しかかっているように見える。しかも彼らは権限と高所得を得る傾向にある。今後、ノブレスオブリージュを意識せず、利己的、経済的、科学的合理性に重きを置いたエリート層の意思決定や「エンジニア」資格の大衆化による高学歴層の態度の変化を目にすることが多くなるかもしれない。
藤本昌代(同志社大学) 2018.8.1


no.56 戦争の記憶の現在

 ラオスのヴァンヴィエンは、近年、旅行者の数が増加しており、町にはレストラン、ホテル、ゲストハウスが数多く立ち並んでいる。周辺は自然に溢れており、町から約8km離れたところに位置するブルーラグーンでは多くの人々が水遊びを楽しむ。もっとも、いまでこそ観光地となっているものの、ベトナム戦争時には滑走路が敷かれ、アメリカ軍の戦闘機が飛び立っていった。

  その滑走路の跡地は、現在では町を南北に貫く幹線道路の裏手に広大な空き地となっている。日中はブルーラグーンに向かう交通手段の一つであるレンタルバギーの発着所や運転コースとして、また大型バスの駐車場として用いられている。夜になると様々な屋台が立ち並び、多くの人々で賑わう。僕が訪れたその日は、結婚パーティーが開催されていた。

  町の中心部にはナイトクラブもあり、偶然出会った数名のフランス人と訪れた。とりわけT君とCさんは日本のアニメをよく観ていたこともあり日本の話題についての会話がはずんだ。試しに広島の原爆のことを知っているか尋ねると、「知っているよ」と答えたので、それなら第二次世界大戦時、大虐殺の現場となったオラドゥールには行ったことがあるか尋ねてみた。すると、「知らない。どこにあるの?」との答えだった。

 ヴァンヴィエンの日常を見る限り、T君やCさんを通じてオラドゥールを捉える限り、戦争の記憶は後景化している。とはいえ、広島の原爆の記憶がたびたび再構築されてきたことを顧みれば、「ヴァンヴィエン」や「オラドゥール」の再構築の可能性を見通すことができる。しかし、すでに戦争にまつわる諸問題が解消されているならば、もはや異議申し立てや再評価などを試みようとする動きは生まれないのかもしれない。

滑走路の跡地(2017年3月)


ブルーラグーン(水に飛び込もうとしているのがヒッチハイクで偶然出会ったフランス人)
濱田武士(関西学院大学大学院) 2018.7.18


no.55 無題

 今日、私たちの道徳意識がますます低下しているのではないだろうか。 政権は選挙をにらんで、社会保障給付費の負担増への対応を先送りしているという記事が朝日新聞東京版2018年5月22日朝刊に掲載された。私はこの記事を読みつつ、政治家は高齢者や子どもの利益にはあまり関心がないと感じた。

  かつ、学生の指導でも同様のことが認められる。先日、星野欣生先生の『職場の人間関係づくりトレーニング』(2007)を参考に、「私が大切にしていること」、すなわち「愛情」「自己実現」「お金」「正義」「楽しみ」「健康」の6項目について、グループごとに学生が話し合いのうえ、彼らにその順位を決定させたが、ほとんどのグループで「正義」が5位ないしは6位という結果であった。

 なぜこの事態が生じたか。デュルケムにしたがえば、人口増加による分業の急激な発展が生みだした無規制状態として説明できる。が、今日の人口減をふまえれば、彼の議論をそのまま適用するのは困難であろう。 あるいは、この事態は、中根千枝先生が述べたところの、日本社会の「構造」が生みだしたのではないか。「ウチ」における直接接触的な人間関係が優先されるいっぽうで、人びとは「ヨソ」には無関心を装う。この「構造」が、社会保障制度改革の遅れや正義感の低さの背景なのかもしれない。

 フランス社会学は道徳の科学として始まった。ゆえに、その継承者はこの事態を把握する努力が必要ではないだろうか。
杉谷武信(東京工学院専門学校) 2018.6.27


no.54 デュルケームのアウトライン

 基盤研究(B)「社会学のディシプリン再生はいかにして可能か――デュルケーム社会学を事例として」(課題番号:15H03409、研究代表者:中島道男[奈良女子大学]、2015~2018年度)の事務局スタッフをしている。

 この科研費研究では年に2回ニュースレターを発行している。最初の号を作るとき、タイトル部分に入れるために、デュルケームの顔の絵を描いた。私の画力はノートの端に落書きをする程度なのに、デュルケームの顔を眺めていたら描けそうな気がしてしまい、勢いで描いてしまった。口ひげとあごひげ、そして鼻眼鏡。デュルケームの顔のアウトライン(輪郭)をなぞった絵は、ニュースレターやウェブサイトなどに使ってもらっている。

 この「社会学のディシプリン再生とデュルケーム」科研も、今年度が最終年度。デュルケームを通して、社会学の成り立ち、社会学の展開、国際的な広がり、そして社会学教育まで、幅広く検討している。そのなかでの私の研究テーマは、ブルデューを通して見るデュルケーム。ブルデューの社会学を、デュルケームの概念や議論を直接的に引き継いだり乗り越えたりするものではなく、非明示的な形での継承の1ケースとしてとらえたいと考えている。ブルデューのなかに見出されるデュルケームの思考は、100年の時を越えて続く社会学のアウトライン(骨子)ではないだろうか。顔を描いたときのように、特徴をつかめるか。今度は勢いでは無理なので、あともう少しの間、じっくりと取り組みたい。


ニュースレターのデュルケームの顔
村田賀依子(奈良女子大学・非常勤講師) 2018.6.13


no.53 社会的カテゴリーを主軸とした社会研究の重要性

 1990年代以降、人文・社会科学の研究に於いて、「社会現象・社会問題を分析する際、最早、社会的カテゴリーや社会集団に注目しても無益であり、各人の固有の事情や特性に着目しなければならない」というような主張が多くの支持者を集めるようになった。そういう主張が広範囲に支持される理由の第一は、生物学(脳科学や遺伝学)が飛躍的に進歩したからだ。遺伝子やホルモン分泌の研究が、今や倫理学の最先端研究である。「階級的背景が人々の能力に影響するのでなく、各人の生得的な知能が社会的地位の配分に影響する」という説(1994年刊の『The Bell Curve』)が、1960年代の「社会生物学論争」の場合と違って、一部の有力な研究者の間で今なお唱えられている。その理由の第二は、「第二の近代」(概ね高度経済成長期以降の先進諸国)では社会的カテゴリーが人々を包摂し切れず無力化した、という説が説得力を持つようになったからだ。U.ベックに拠れば、社会保障制度が各人を制度的に個別に扱い一定の生活水準を各人に保障する時代には、社会的経済的不平等は温存されているものの、各人は個別に思考し行動し、社会的カテゴリー(例えば階級)に包摂されない(この考えを敷衍して「階級の死」を宣告する研究者も、現れた)。P.ロザンヴァロンに拠れば、現代の社会問題(例えば貧困問題)は、集団やカテゴリーの利害を示す問題でなく、各人の人生の中で様々な差異の複合状況として出現する。

 これらの説に妥当性が無い訳ではない。但し、斯様な説が猖獗を極める状況は、社会問題を自己責任の問題に帰す背景を、成す。人間の道徳意識を生物学で説明する優秀な自然科学者は多数存在するが、彼らの大部分は、脳の仕組みと遺伝子とだけで道徳意識を説明し尽くせるとは決して言わない。確かに、現代の貧困問題は往年のそれと同じでないが、貧困状態へと下降移動し易い層とし難い層とは今も厳然と存在し、両者の違いは、例えば雇用制度に因るのであり、その制度は四十年前よりも「柔軟な」ものになっていて、高い学歴資格を有す人々から成る層の方がその制度を巧みに活用できる。

 生得的要因や各人の個人的事情だけで社会問題を説明し尽くせる訳でない以上、社会科学者なら、集団が各人へ及ぼす深甚な影響とか制度の効力とかを強調してこれを説明すべきだろう。社会科学は、「個人の認識や行動」と「社会集団や社会的カテゴリーの特性」との照応関係を説明する概念を、彫琢して来た(「集合表象」、「集団心性」から、「階級のハビトゥス」に至るまで)。それらの概念によって、社会現象を産み出す構造が明らかになり、社会の病因が特定される。社会科学者は、心性やハビトゥスが個人毎に異なると言うような理論的退行に堕すこと無く、個人的行動と社会的カテゴリーの特性との照応が全体社会を稼働させるメカニズムを分析し、社会構造の修繕箇所を指摘しなければならない。
平林豊樹(社会学者) 2018.5.16


no.52 オブジェクト指向の哲学の社会学への拡張

 10年ほど前、事物についての観念は社会学界の重要な「賭金(enjeu)」であった。本質主義と構築主義の論争である。この論争が決着することはなかったのだが、構築主義が社会学界のなかに自らの位置を獲得することには成功したと言える。そして、今や再び、事物についての観念が重要な賭金となりつつある。今日、哲学界で盛んに議論されている「思弁的実在論」である。そのなかでも、グレアム・ハーマンはブリュノ・ラトゥールに依拠しながらオブジェクト指向の哲学を構想し、その哲学を足場としつつ新たな社会理論の構築を試みている。Immaterialism (2016)において、ハーマンはオブジェクト指向の社会理論を提案している。Immaterialismの第一部ではオブジェクト指向の哲学の諸概念(オブジェクト、事物それ自体(things in itself)など)が説明され、そのうえで、オブジェクト指向の社会理論の諸原理が素描される。そして、第二部において、ハーマンは実際に自らが提示した原理に基づいて東インド株式会社(VOC)を分析し、結論部でラトゥールのANTと対比しながらオブジェクト指向の社会理論の暫定的な規則を提示している。ハーマンの議論の詳細は今後の課題とするとして、構築主義論争との関係のうちでハーマンの試みを位置づけてみたい。

 ハーマンは自らの論敵を還元主義者と呼び、二つないし三つの還元の形式を論じている。「下方解体(undermining)」か「上方解体(overmining)」かである。これは、おおよそ本質主義が構築主義かという語で言い換えることができる。下方解体は事物をその本質に還元し、上方解体は事物をコンテクストに還元するものである。ここまでは言わば、構築主義論争の焼き直しでしかない。ハーマンが提示する重要な論点の一つは下方解体(本質主義)と上方解体(構築主義)がほとんどの場合、単一の仕方で用いられるのではなく、両者を組み合わせて用いているという指摘である。ハーマンはこれを「二重解体(duomining)」と呼んでいる。ハーマンは物理学者を例に論じている。ある物質を原子、分子といった構成要素に分解して考えるという点で物理学者は下方解体を用いるが、物質の究極原因が数式で表記されうると考えるという点では上方解体をおこなう (イアン・ハッキングの動的唯名論は二重解体の代表例だろう)。

 ハーマンは本質主義と構築主義を二重解体として退けつつ、自らの立場を表明している。オブジェクト指向の社会理論は事物の本質、実在性について探究するのだが、物自体としての事物の本質は知りえないこと、事物の実在性が人間の精神とは無関係には存在しえないことを認めている。つまり、ハーマンは事物の本質や実在性を問うという意味で本質主義的であり、事物の実在性は人間の精神から切り離しては知りえないという意味で構築主義的なのだ。本質主義にも、構築主義にも、還元することなしにオブジェクト指向の社会理論を理解し、そのうえで、それが単なる折衷主義以上のものなのかを問わなければならないだろう。
松野充貴 (名古屋市立大学大学院) 2018.5.2


no.51 「独立」の機能的等価物としての「対立」

 クラ交易の取引開始の際の儀礼。古代ゲルマン法での担保物引渡しの儀礼。マルセル・モース『贈与論』(1923~24年)において、未開人・古代人は、贈る側は贈物を投げつけるようにして与え、それを受け取る相手方も取るに足らない物であるかのように扱う点が指摘されている。このような儀礼を経て取引に入るのはなぜか。

『贈与論』に直接の回答はないが、ここから透けて見えるのは、相手の風下に立たされぬように常に気を張っていなければならない状況である。贈物をぞんざいな仕方で与える、受け取る。序列関係が形成される契機が常に潜在しているからこそ、このような誇張した態度を取って、これが恭順ではないことを示そうとする。自らの威容を誇示することで、均衡状態を保とうとする。そうすることで闘争を回避し独立を保持する――それ以外のやり方を知らなかった――のである。

 当然のことながら、このような誇張した態度を取らなければならない――でなければ独立が脅かされかねない――のは安全保障を担う超越的権力が存在しないからである。「未開社会」を抽象の水準を上げて規定し直すと、それは“安全保障の担い手の不在”“安全保障が当事者に委ねられている状況”である――このことは既にマーシャル・サーリンズが指摘している。その意味では、第三者権力不在という状況下においては、「対立」が「独立」の機能的等価物と言える。

 このように抽象度を上げて考えれば、「スラム」「下層」「非行仲間集団」において威嚇的な文化が醸成される事情がよくわかろう。いや、もう少し言えば、これらはある特定の階層の“文化”というよりも、特定の状況に規定された“適応様式”でしかない。というのも「スラム」「下層」「非行仲間集団関係」とは、規範的拘束力・権力の影響力の最も弱い状況、裏側から言えば、その分その庇護(安全保障の恩恵)が最も受けられない状況であるからだ。

 こうも過剰(=喧嘩腰)な形で自律性を示そうとするのは極北としても、対立することで独立を保持するという構造それ自体は、実は、われわれの行う対人コミュニケーションの基底的な要件として存在している。このことを指摘したのはアルビン・グールドナーである。確かに、このような物言いこそしていないが、タルコット・パーソンズの「貢献‐報酬連関」図式の妥当性を「限界効用逓減」という観点から論難する形で――この図式では社会秩序の持続性が説明できないとして――事実上そのような主張を展開している。

 「私が仮定するのは、自我の同調行為の連続が、破れることなく続けば続くほど、他我は、自我の以後の行為を当然のこととして受けとることが多くなり、それらが注目されることが少なくなるということである。」(『社会学の再生を求めて 2』新曜社、1975[1970]年、矢沢修次郎・矢沢澄子訳、p.94)

 相手の要求に応えれば応えた分だけ、相手はそれに慣れてゆき、段々と要求水準は上がってくる(あつかましくなってくる)。だから、こちらはその都度に貢献をつり上げていかなければならなくなる。その一方で、相手側も、その時は期待が充足されたとしても、それ以上に要求が肥大化していっているので、結局は、不平たらたらの状態(アノミーの常態化)に陥るのである。

 確か、内籐朝雄は、いじめ関係において、被害者意識を抱いているのはむしろ加害者の方である(少しでも自分の言う通りにしないと本当に被害感情を抱く)ことを指摘する一方で、中井久夫は、日々暴力にさらされていると、加害者が少しでも攻撃の手を緩めれば、本当に彼に対して感謝してしまうことがあることを指摘する。

 与える側の負担と受け取る側の不平不満の肥大化。グールドナーがこの悪循環のループに歯止めをかける実践として呈示したのが「期待の撹乱」である。相手の要求に応えてばかりだと相手はどんどんつけ上がってくるので、タイミングを見計らっていったんは相手の期待に応えるのをやめなければならない。そこでいったんリセットをしなければならない、と。
松本隆志 (関西学院大学大学院) 2018.4.18


no.50 「権威体」について

 定年も間近になり、自分なりの社会学、大げさなら社会理解をまとめているが、その過程で「権威体」という概念を作ってみた。ヒントはカール・ポラニーや柄谷行人の互酬・交換・再分配という分類である。「権威体」はこのうちの再分配を担う集合体だ。しかし、権威体は国家に限らない、あるいは再分配は国家に限らないと考えている。権威体は歴史貫通的な実態として人類とともにあったと見ている。

 つまり、群居動物としての人類は常にムレ・ムラ・クニ等を頼りに暮らし、それらを創発的に対象化して命名し、権威として受け入れ、個体の欲求と折り合いをつけながら生きてきた。歴史の過程で当初権威体だった親族共同体は定住とともに地域共同体にその地位を譲り、近代以降は市場と一体となった主権国家が共同体から再分配機能を奪い取った。

 さらに、権威体の再分配機能は物質的な側面に限らないと考える。再分配を柄谷は「略取」と「再分配」からなると言うが、これは精神的–道徳的な側面でも言える。精神的な略取が狭義の「道徳」であり再分配が「正義」である。権威体は個々人に道徳を課しつつ他方で正義を実現する。これらの略取と再分配を「与奪機能」と、これまた勝手に命名した。

 こうして人類はどの時代にも、どれかの集合体を権威体とし、その「与奪機能」に物質的・精神的な期待を寄せてきたが、こんにち近代国家という権威体はその機能を果たせなくなりつつあり、取って代わるものもない。その原因はグローバル化であり、機能不全へのヒステリックな反応が右傾化であろう。もう字数を超えた。

 今後、デュルケムの道徳やフーコーの生政治などとのすり合わせ等も考えていきたい。
梅澤精 (新潟産業大学) 2018.4.4


no.49 人口減少社会における学問の継承

 最近、気になっていることがあります。それは、今後の日本社会における人口減少が学問の継承にどのような影響をもたらすのだろうかということです。このような人口減少社会における学問の継承に関する真剣な議論の動きがあることを私は寡聞にして知らないのですが、どこかでなされているのでしょうか。

  国立社会保障・人口問題研究所による「日本の将来推計人口(平成29年推計)」の出生3仮定(死亡中位仮定)によれば、2065年に、出生高位推計では総人口が9,490万人になり、出生中位推計では総人口が8,808万人になり、出生低位推計では総人口が8,213万人になるという結果が出ています。国勢調査によれば、2015年の総人口は1億2,709万人であったので、仮に出生中位推計の総人口に落ち着くとするならば、日本の総人口は半世紀の間におよそ3分の2になる計算です。また、単純に人口が減少するのではなく、今以上の少子高齢化社会となります。

 このように人口が減少していくとしたときに、これまで各学問分野で築き上げられてきた叡智が、灰燼に帰すことなく、はたしてうまく後世に継承されうるのだろうかと危惧しています。もし、うまく継承することができないのであれば、とても残念です。もちろん、単なる杞憂に終わる可能性もあるのですが、どのような事態が発生するのかについては今のうちに想像力を働かせておいてもよいのではないかと思っています。
楠木敦(北星学園大学)2018.3.21


no.48 フランスの「ジプシー」と「ロマ」

 「マヌーシュというフランスのジプシーの研究をしています。」このようにわたしが自分の研究を紹介するとき、日本ではたいていの場合、「ジプシーと呼んでいいのですか?」「…そうですか、ロマの研究ですね」という言葉が返ってくる。

 日本では、「ジプシー」は蔑称であり、「ロマ」と言い換えなければならないという考えが1990年代ごろから広まってきた。この背景には、中・東欧の国々に暮らすロマと自称する人びとによる民族運動の興隆を受け、かれらの主張通りに、他称である「ジプシー」ではなく、かれら自身の自称「ロマ」を用いるべきだという見解が、欧米諸国や国際機関で認知されてきたことがある。

 しかし、残念なことに、「ジプシー」と呼ばれる人びとすべてが「ロマ」と自称するわけでも、そう呼ばれることを望んでいるわけでもない。わたしの研究対象マヌーシュが暮らすフランスでは、「ロマ(フランス語ではロムと発音する)」はあくまでジプシーの一下位集団名という位置づけで、とりわけ近年では、共産主義体制崩壊後に中・東欧諸国からフランスに流入し、外国籍移民として暮らす特定の集団を指すようになっている。こうしたことから、数世代にわたりフランス国民である、マヌーシュやジタンなどの下位集団に属すフランスのジプシーは、「ロマ(ロム)」と呼ばれることに対して強い抵抗感をもつ。

 以上の背景から、フランスでは、ジプシー当人たちのみならず研究者も「ジプシー」(Tsiganes/Gitans)という総称を用いている。しかし常々こうした呼称のやりとりを繰り返すなかでわたしが感じるのは、呼び方を変えても何も変わらないジプシー/ロマをとりまくまなざしである。マヌーシュは「ロマ(ロム)」を総称とすることを拒否するが、それはロマの非正規滞在が社会問題化するフランスにおいて、そもそもいかなる意味でも蔑称ではなかったこの名称に、いまや「歓迎されざるよそ者」というスティグマが付与されているためである。ジプシーであれ、ロマであれ、さらには移動生活者(Gens du Voyage)という近年普及した新たな名であれ、かれらを「よそ者」として位置づけるまなざしが残り続ける限り、呼称の変更は人びとの居心地を少しも良くはしてはくれないのだ。
左地亮子 (国立民族学博物館) 2018.3.7


no.47 創作と事実のあいだ

 2016年6月、フランス北部、ノール=パ・ド・カレー地域を訪問した。この地では18世紀末より石炭採掘が始まり、19世紀半ばから1990年代に終焉するまでフランス最大の炭田であった。このとき訪れたノール県ルヴァルドには、次世代の人々が地域の鉱業史を学べるよう、鉱業文化を保存することを目的とした鉱山歴史センター(1984年開館)がある。

  この施設の見学時、特別展として「『ジェルミナル』、創作か事実か?」が開催されていた。『ジェルミナル』とは、自然主義作家エミール・ゾラが1884年から翌年にかけて発表した小説であり、1963年と1993年に2度の映画化もされている。ゾラはこの小説の執筆に際し、この地にあったアンザン炭鉱会社を訪れ、1884年の大規模ストライキの最中の地上と地下の様子を取材しているのだが、小説については炭鉱のダークサイドばかりを強調してその姿をゆがめたという批判もある。ここで興味深かったのは、彼が取材したのは1880年代の炭鉱だが、小説の舞台となっているのは1860年代であるということである。つまり、炭鉱の労働・生活環境の負の側面を誇張するために、あえて時代遅れとなった古い時代を舞台とし、読者の関心を誘ったのではないかと考えられるのだ。特別展では、当時の実際の炭鉱の技術や生活に関する史資料とゾラの作品内の描写を照らし合わせるかたちで、こうしたズレを検証するものであった。

  かつて日本でも、五木寛之の小説『青春の門』や土門拳の写真集『筑豊のこどもたち』が炭鉱街の「ガラの悪さ」や「貧困」などの負のイメージばかりを普及させたという「功罪」が指摘されたことがあった。だがフィクションにしてもジャーナリズムにしても、それが何らかのメッセージの表現の形式であることを踏まえれば、このことはたんに「歴史に忠実」であればいい、「バランス」をとればいい、といったような単純な話ではない。この特別展のように、表象というものが「いかなる視点から、いかに構成されたものなのか」を知ろうとする試みが、非常に重要なのではないだろうか。


特別展のイントロダクション
木村至聖(甲南女子大学) 2018.2.21


no.46 トルコにおけるデュルケームの翻訳

 デュルケームの諸著作の翻訳に関して、日本は世界でも指折りの刊行点数を誇っているが、トルコもまたデュルケームの「翻訳大国」であることは、あまり知られていない。

 彼の生前に出版された主要4著作はもとより、『道徳教育論』や『社会学と哲学』といったより各論的な業績の多くも、今日トルコ語で読むことができる。

 特筆すべきは、翻訳(初版)の刊行年の早さである。個別論文の翻訳はすでにデュルケーム存命中から行われていたが、著書も逸早くトルコ語に移されている。その一部を、日本の場合 (カッコ内の年次) と比べてみると、

1923 :『社会分業論』(1932)
1924 :『宗教生活の原初形態』(1930-32)
1927 :『自殺論』[=ただし、雑誌に分載された内容要約] (1932)
1927 :『道徳教育論』(1964)
1928 :『教育と社会学』(1934)
1943 :『社会学的方法の規準』(1942)

 という具合に、多くの訳業が何と1920年代になされており、少なくとも刊行年次については、日本に大いに先んじている。こうした状況には、デュルケーム社会学が社会再建の処方箋として、当時のトルコの知的世界一般を風靡していたという事情が大きく与っている。

 翻訳に際しては、訳語の選定が大きな問題となるが、初期の翻訳において、たとえば“sociologie”には“içtimaiyat[原義は集まりの学]”、“fonction”には“hizmet[貢献]”、“conscience collective”には“maşerî vicdan[集団的な‐良心]”“socialisation”には“içtimâîleşme[社会的にする]”、等の語句をあてるなど、工夫の跡がみてとれる。もちろん、個々の術語については定訳が確立していたわけではなく、訳語の不統一の問題は、当時から論議を呼んでいた (cf. Mehmet İzzet, 1924)。言語の純化運動や、アタテュルクの西洋化政策の影響もあり、多くの訳語は二転三転している。たとえば「社会学」の名称さえ、のちに現代トルコ語の“toplumbilim”ないし原語に舞い戻った“sosyoloji”へと変化した。とはいえ、母国語の語彙をあてる方針は基本的に維持されている。

 日本は西洋の学術・文化を母国語への翻訳を介して摂取しえた、世界でもまれな国であるとよく言われる。しかし、舶来の新知識を同様なやり方で根づかせようとしたトルコの努力そして心意気も ―― デュルケームの翻訳という葦の髄から覗いて観た限りでの感想ではあるが ―― 決して過小に評価されてはならないように思われるのである。
横井敏秀 (大阪大学・非常勤講師) 2018.2.7


no.45 記憶と現在

 指導教官の影響もあり、大学院時代はプラグマティズムの解読に取り組んでいた。当 時、社会人からの出戻りで知識に飢えており、遅ればせながら始めたフランス語で知り 合った仲間と週1回、原書購読にも取り組んでいた。結局、フランス語は上手くならな かったが、記憶に残っているのは、SやらABやら、記号の付された円錐形の引用図面で ある。それならベルクソンとプラグマティズムとの関係についてまとめたらどうかと指 導教官に勧められたが、社会学から遠ざかりたくなかったので、なんとなくうやむやに し、そのままにしていた。

 それが最近、本学会をも含め記憶論について拝聴する機会が多い。アルヴァックスや ノラを出発とするのであろう事例分析に毎回、新鮮さを覚えている。一方で、おそらく 勉強不足のせいか、少し物足りなさを感じてもいた。そもそも、あの円錐形がどこにも 出てこないではないか! そんなものが社会学に何の関係があるのだと言われてしまえ ばそれまでであろう。ただ、研究できる残り時間も徐々に少なくなってきていることだ し、本当にそうなのかどうか、少し取り組んでみてもよいかなと考えている。これまで 多くの先生から社会学の知識を学んできたのだから、何を書いてもいまさら哲学にはな らないだろう。そう信じることにして、いままでやってきたフィールドワーク、とりわ けここ10年ほど足繁く通っている沖縄に当てはめてみたらどうだろう。自滅するかもし れないが、ひょっとすると行き当たりばったりだった人生の辻褄が少しは合うかもしれ ない。
藤谷忠昭(相愛大学) 2018.1.24


no.44 2017.11 ネパール3週間の滞在

 昨年11月に3週間ほど、夫婦でネパールに滞在しました。

 第1週目は、妻の旧友でチカコさんという日本人女性が、夫君クリシナ氏とともに住む山荘の3階の部屋に転がり込んでいました。窓からは、なんとヒマラヤ山系を前方180 度展望でき、とりわけ早朝には、眼下右手に雲海が漂う幻想的な光景が展開するのです。やがて太陽が顔をのぞかせると、遠方に拡がる白い山々のなかでも、ひときわ美しい「ランタ-ン山」がピンクに輝き始めます。まさに地上の天国にいる思いでした。

 第2週目は、アンナプルナというヒマラヤ山系の一部で、トレッキングに挑戦。毎日、かなりの強行軍で、若く誠実なポーターと日本語が堪能なネパール人中年ガイドの後ろについていくのが精一杯でした。早くも二日目の登攀で私は疲労困憊に陥り、下痢を起こしてしまいました。それでも翌第三日目には、ついに海抜3,200メートル地点で、近くに見える白亜の山並みを前に、身が清められるような感動を覚えたことです。

 第3週目は、トレッキングに同行してくれた山岳ガイドのお宅や、政府の復興庁で活躍するネパール人中年男性の邸宅、またカトマンドゥ中心部の民宿などに宿泊でき、有り難くも、それぞれの投宿先で大歓迎を受けました。こうしてネパールの宗教観・カスト制度の温存・定番の食事・乾季の首都が埃の都市となること、などの実体験を通して、ネパールの魅力と活力を満喫できたことを感謝しています。


雲海

夫婦白山
三橋利光(東洋英和女学院大学名誉教授) 2018.1.10


no.43 アルヴァックスと戦争

 「戦争の記憶」論や文化遺産論の隆盛の中で再評価されたモーリス・アルヴァックス(1877‐1945)は、集合的記憶論の始祖とされている。だが、彼はその記憶論の中で「戦争の記憶」については全くと言っていいほど語っていない。なぜ彼は「戦争の記憶」を正面から取り上げなかったのだろうか。おそらくそれは、彼が戦争というものにあまりに深く巻き込まれていたがゆえに、直接にそれを対象とすることができなかったからではないだろうか。

 第一次世界大戦時には、彼は国防省で軍需産業の組織化に尽力した。そして、第二次世界大戦時には、レジスタンス活動によりブーヘンヴァルト収容所に収容され、そこで非業の死を遂げている。彼自身が、「戦争の記憶」を語ることはついに叶わなかった。一方で、ブーヘンヴァルトでのアルヴァックスの悲惨な最期については、同じ収容所に収容されたソルボンヌ大学時代の教え子ホルヘ・センプルンが、時を隔てた1994年にようやく語ることになる(L’écriture ou la vie。邦題は『ブーヘンヴァルトの日曜日』)。

 アルヴァックス自身がついに論じることの叶わなかった「戦争の記憶」。これがセンプルンという他者の手を介してしか実現されなかったことは、歴史の皮肉としか言いようがない。だが、私はここに、アルヴァックス自身が実現することのなかった「戦争の記憶」論の一つの形を見出すのである。
金瑛(京都大学大学院) 2017.12.27


no.42 フランスと核

 フランスは核保有5大国のうちのひとつであり、核兵器300発を持っているとされる。ひと桁異なるものの、フランスはロシアとアメリカに次ぐ第3の核保有国である。  
  
 2017年12月10日、非政府組織「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞した。授賞式には、フランス含む核保有5カ国の駐ノルウェー大使が欠席するという異例の事態が示された。ICANが推進してきた核兵器禁止条約に反対する意思表明とみられる。日本も署名していない。フランスのジャーナリズムでは、管見の限り、受賞前夜と受賞直後の状況をただちに報道したのはAFP通信のみ、ICANの主要メンバーに対する受賞前の単独インタビューを報道したのはLibérationのみである。いずれも、事実を淡々と記述するというスタイルに留まっている。

 フランスは戦後、原子力開発をから核兵器開発へと変遷していった。1960年代にはサハラ砂漠とポリネシアで210回もの核実験を行ってきたことはよく知られる。一方、フランス政府は、核実験による被害の実態を伏せてきた。被害者たちが証言を重ね、調査と認定が進もうとするのは2000年になってからである。

 原子炉、核実験、核兵器の問題にみるように、フランスは核に幾重もの後ろめたさがあるはずである。だからこそ、居直り、情報を隠すのだ。これは日仏両当局に共通することでもある。日本は使用済み核燃料の再処理をフランスに依頼してもいる。核と日仏の浅からぬ関係は、今後、武器輸出の動向からも注視していかなければならない。  
山本由美子(大阪府立大学) 2017.12.13


no.41 田辺寿利初代会長との縁(えにし)

 過日行なわれた本年度の日仏社会学会大会は、荻野会長の下、気鋭の研究者が多く集って充実の大会となった。本学会の田辺寿利初代会長もこの発展ぶりを喜んでおられると思う。

 この田辺と、筆者が勤務する創価大学とのご縁を紹介したい。本学の創立は、『創価教育学体系』(1930年)の著者牧口常三郎の教育理念に源を発している。実は牧口は田辺と親交があり、23歳年下の田辺を師として社会学を学んでいた。上記の著作にもコント、デュルケムなどが多く引用されている。田辺はこの著作の発刊に、新渡戸稲造、柳田國男と共に一文を寄せている。曰く「一小学校長たるファーブルは昆虫研究のために黙々としてその一生をささげた。学問の国フランスは、彼をフランスの誇りであるとし、親しく文部大臣をして駕を枉げしめ、フランスの名に於いて懇篤なる感謝の意を表せしめた。一小学校長たる牧口常三郎氏は、(中略)ついに画期的なる『創価教育学』を完成した。文化の国日本は、如何なる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」(『田辺寿利著作集』第5巻)と。残念ながら「文化の国日本」は牧口を思想犯として逮捕・投獄し、獄死するに至らせている。

 牧口に大きな影響を与えたフランス社会学。1971年の本学スタートの際に文学部社会学科が置かれ、少し後から新明正道、阿閉吉男などの錚々たる社会学者が集ったことに田辺との不思議な縁を感じる。その後佐々木交賢教授が本学会の会長となり、本学で事務局の業務に携わらせてもらったときにも、そのご縁から精一杯やらせてもらおうと思った。

 2020年に日本で、次いで2024年にフランスでオリンピックが開かれる。「文化の国」日本は、そして「学問の国」フランスはいかなる祭典を催すのだろうか。 
杉山由紀男(創価大学) 2017.11.29


no.40 比治山陸軍墓地のフランス兵士の墓

 広島市中心部の平和大通りを東に進み鶴見橋を渡って京橋川を越えると、標高70mほどの比治山にたどり着く。その一帯は比治山公園として整備されていて、広島市では平和公園、黄金山と並ぶ桜の名所として知られる。山の南端には旧陸軍の墓地があり、春には花が豪奢に咲き誇るのが容易に想像できる立派な桜の樹々で囲まれている。

 そこには第二次世界大戦までに亡くなった兵士たちの墓標がところせましと並んでいるのだが、それを抜けた先にはフランス兵の立派な墓石が突然目に入る。どうしてフランス兵士の墓が広島の陸軍墓地にあるのだろうか?広島大学と交流協定を取り交わしているブルゴーニュ大学のヴェロニク・パリゾ先生が広島にいらしたおりに、何か心当たりでもとお連れしたところ、先生も思いがけないものを見たというご様子だった。そしてフランスに帰国後、資料にあたって調べていただいたのが、次のようなことであった。

 1900年6月、義和団の乱が勃発した北京では、西洋列強や日本の外国公使たちが公使館に籠城を余儀なくされ、各国の軍隊へ救援を要請した。イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、日本、イタリア、オーストリア=ハンガリーが二度にわたって連合軍を派遣し、8月14日にようやく北京に到達する。その際、義和団や清朝軍との戦闘で負傷したフランス兵士約400名が治療のため広島に搬送されたのだが、そのうち6名が故国フランスの地を踏むことなく広島で亡くなったという。

  二度の世界大戦を経験する20世紀は次の年に始まる。日本も含め各国はそれぞれ別の思惑を胸に秘めて協力し合ったであろう。比治山の陸軍墓地にフランス兵士の墓があるのは、戦争の世紀へと世界が突き進んでいった過程の痕跡とも言える。

江頭大蔵(広島大学) 2017.11.15


no.39 「学問中心地」の象徴闘争

 これまで主に教育の領域で日仏の様々な断面に触れる経験をしてきた中で、今さらながら東京とパリの比較に取り憑かれるようになった。中央集権の近代国民国家を形成した両国において、東京(帝国)大学とパリ(ソルボンヌ)大学を中心に、高等教育がどのように拡張を遂げていったのかという問いである。都心部から郊外への拡張、古典学問から職業専門教育への転換、身分・階級を超えた人材養成、国家の都市計画と民衆の人口集中など、多角的な観点から比較の興味が湧いてくる。そこにはソルボンヌで社会学と教育学を講義したデュルケムも関わってくる。  

 私自身は、大阪府八尾市の出身で新潟県上越市に就職で移動しただけなので、東京・パリともに完全アウェーである。大学生の時、大垣発の夜行列車でよく眠れないまま東京に着き、方角もわからず少し歩いて桔梗門の掘の上に寝てしまったところ、皇宮警察が来て注意されたのが東京初体験である。フランスに初めて旅行した時には、カルチエ・ラタンに日本人が結構いて呼びかけられ、同宿させてもらった記憶がある。  

 これまでどれだけの人が東京とパリの比較を試みたか、その広大な背中に乗せてもらいながら、ささやかに資料を読み解きつつ自分なりの「発見」に目を奪われている。最近は、鹿島茂氏がパリ市街の古層と神田神保町書肆街の歴史を掘り起こしているのに触発されて、カルチエ・ラタンと湯島・神田・本郷の「学問中心地」の形成過程を調べてみた。当初はセーヌ川と隅田川・神田川の「川」を基準に眺めていたが、パリと東京の「山」に着目することで見方が大きく変わった。アベラールが名声を博したサント・ジュヌヴィエーヴ山と、本郷台と駿河台をつなぐ神田山である。

 神田川は、徳川入国後に山を南北に分かつ形で開削され、その北岸に湯島聖堂が創建された。明治維新後は近代学問の発展に伴って湯島から神田一ツ橋、本郷へと「学問中心地」が移動し、戦後は本郷区と小石川区が合併して「文京区」になった。パリでも1968年以降に大学の新設・分割が進んだが、それまで何世紀にもわたり大改造が行われ、運河も掘られたにかかわらず、カルチエ・ラタンがセーヌ左岸に閉じ込められたのとは対照的である。J.ベン=デヴィッドは、国際的な「学問中心地」のアカデミック・ドリフトを論じたが、日仏両国においても東京とパリの「山」を舞台に、それが繰り広げられた象徴闘争の軌跡をたどってみたい。
大前敦巳(上越教育大学) 2017.11.1


no.38 フランスの大学 オーケストラ体験

 私は現在Co-tutelle de thèseをやっており、2014年秋から1年間ストラスブール大学で指導を受けた。このとき、コントラバス奏者として大学オーケストラに入団したことは、留学中の面白い体験の1つであった。私は日本で長く演奏活動を続けているが、日本の常識を持ち込むと、あれ?と思うことがたくさんあった。

 演奏会に上下黒の衣装で、と指定された私は、黒ブラウスと黒ロングスカートを着た。そして浮いた。なぜなら、他の女性団員は黒ミニスカートだったからである!日本では楽譜を各自で製本する。私が製本した楽譜を持っていくと、何それ?日本式なの?と言われた。みんなバラバラの楽譜を飛ばしながら演奏していた。演奏会の日、指定された楽屋に入ると男女一緒の部屋で着替えをしていた。客席で着替えていた女性もいた。ベルギーに演奏旅行に出かけたが、宿泊先はやはり、と言うべきか13人男女混合部屋だった。これらに最初は驚いていたがすぐに適応してしまった。

 演奏会では寄付を募るために団員有志でお菓子を焼いたりおつまみを作ったりして、それを休憩時間にお客さんに振る舞っていた。面白く、良いアイディアだなと思った。ストラスブールという土地柄もあり、EU関係のイベントにも多く参加した。大聖堂の前でのフラッシュモブで第9を弾いたのは楽しい思い出の1つだ。

 団員はアジア系2名を除き全員白人で、大学内で会う他の学生たちに比べて身なりの良い子が多かった。入団はオーディション制で初心者は入団できないのだが、経済的余裕がないと幼少期から楽器を嗜むというのは難しいからだろう。



フラッシュモブ途中でEUのTシャツに着替えての第九演奏。
山﨑晶子(一橋大学大学院) 2017.10.18


no.37 リヨンの街

 ベルナール・ライール(リヨン高等師範学校)の研究に触れるようになってから、彼がいるリヨンの街に興味を抱きはじめた。別に彼はリヨンの研究をしているわけではないので、単に個人的に気になっただけである。リヨンはフランス第二の都市であるけれども、パリのように多くの情報が入ってこないところも何となく魅かれた理由かもしれない。

 リヨンを初めて訪れたのは、2012年3月のことで、そのときは2週間ほど滞在した。リヨンの中心部は非常にコンパクトで、メトロやトラムなど交通機関も発達していて、どこへ行くにもとても便利な街だった。それにリヨンを象徴するフルヴィエール大聖堂の建つ丘に登れば、世界遺産に登録されているリヨン歴史地区を含む美しい街並みが一望できる。

 ところでリヨンは「美食の街」「絹の街」「金融の街」「ハイテクの街」などと呼ばれ、色んな顔をもっている。その中でも特に興味をそそられるのはリヨンが「美食の街」ということだ。リヨン郊外にはかの有名なポール・ボキューズの本店があり(残念ながら行ったことはない)、街中には地元料理を出すブションと呼ばれる庶民的なレストランも多数ある。そのうえ2018年には、リヨン国際美食館(Cité Internationale de la Gastronomie de Lyon)も開業する予定のようだ。これによって、「食」という文化遺産がどのように知として保存され発信されるのか、今から非常に気になるところである。

 実はいま私は、ブルデューの『ディスタンクシオン』の影響もあって、「食」を社会学することに大きな関心を抱いている。思いがけず気になりはじめたリヨンの街は、その意味でも私にとって目が離せない存在であり続けている。


リヨンの街並み
村井重樹(島根県立大学) 2017.10.4


no.36 夫婦の年齢差

 2017年5月に就任したマクロン大統領は、39歳という若さに加えて、妻が24歳年上という点でも注目を浴びた。「フランスでは珍しいことではないの?」という質問を受けたこともあり、「夫婦の年齢差」についての日仏関連統計の一端を紹介したい。  

 フランスの夫婦(couple)は登録婚の他、パクセ及び自由婚(union libre)等があり、かつ同居している場合と別居している場合とがある。INSEE調査(2012年)によると、夫年上56%、ほぼ同年齢30%、妻年上14%である。全年齢層を対象としていることもあり、年上妻は予想より多くないが、1960年の10%に比べると増加している。高齢の夫婦程年齢の離れた年下妻の割合が高く、高学歴や管理的職業の夫婦は夫年上の割合が低いが、移民夫婦では年齢差の大きい夫年上婚が多いという(INSEE PREMIERE No1613)。     

 統計手法も対象も異なるので直接比較はできないが、日本の場合、2015年に婚姻届を出した登録婚の内、夫年上55%、同年齢21%、妻年上24%である。1960年には10,3%だった妻年上婚が日本でも急増傾向にあることが分かる(天野馨南子「年の差婚の希望と現実」ニッセイ基礎研究所、2017-02-02)。 夫婦の年齢差は社会経済構造とその変化の形態・速度等に関連していると同時に、それぞれの夫婦が形成する日常生活にも大きな影響を与える。夫婦の年齢差という観点からの歴史的・総合的日仏比較は興味深い研究テーマである。      

 マクロン氏のケースはフランスでもまだ一般的ではないが、社会通念を超えた夫婦のあり様を観察する良い機会かもしれない。
松村祥子(放送大学名誉教授) 2017.9.20


no.35 サン=シモンと日本

 今年の5月末、トゥール大学のJ・グランジュ教授が日本大学での講演のために来日された。著名なコント研究者として知られるマダムだが、新版『サン=シモン全集』(2012年)の編集にも携わり、近年はコントの師の研究にも力を入れておられる。留学時代に指導を受けたこともあり、2年前に一橋大学でサン=シモンの講演をお願いした時も快く引き受けてくださった。したがってマダムの来日はこれで二度目となる。

 ところで日大法学部のサイトにサン=シモンの自筆書簡がアップされているのをご存知だろうか(1)。実は講演のほかにマダムの来日の目的はこの未刊行草稿の調査にあった。彼女も参加している、Ph・レニエ教授の研究グループが『全集』に続き、『書簡集』の刊行を準備していた矢先、このサイトの数通の書簡に目が止まったというわけである。それにしても森博教授のビブリオにもないサン=シモンの新史料がなぜ日本にあるのか?

 これら書簡を含むサン=シモン(派)の草稿群の最初の持ち主は、レオン・ド・ラ・シコチエール(1812-95)なるアランソンの代議士。この人物がなぜ祖父ほども歳の違うサン=シモンの草稿を保管していたのかはわからない。だがアランソンといえば極貧生活に陥ったサン=シモンが事業の協同出資者レーデルンを頼って一時逗留した土地でもあるから、その時に何らかの人脈を築いていたのかもしれない。

 ところが20世紀に草稿群は四散、歴史の闇へと消える。わかっているのはイギリスの書店から日本の大手書店を経て1990年にその一部が日大にやってきたということだけ。今後の研究グループの調査を待つよりほかないが、いずれにせよその価値をわかる人がいなければ日本にはこなかっただろう。日大法学部とサン=シモンといえば、藤原孝先生の名前が思い浮かんだ。私はその辺りの事情をご存知ではないかと思い、すでに退官されていた先生に、今回のマダムの来日を機にお尋ねしてみようと思った。

 しかし、私の希望は叶わなかった。マダムの来日を心待ちにしていた藤原先生がその一月前に急逝されたとの知らせを受けたのは、マダムの歓迎レセプションの席上のことだった。先生のご冥福を祈るとともに、日仏を結ぶこの調査に今後とも微力ながら協力していければと思う。

(1)http://www.law.nihon-u.ac.jp/library/collectionpack/saint-simon/index.html
杉本隆(明治大学) 2017.9.3



no.34 社会学からプルードンへ、プルードンから社会学へ

 2014年の秋、パリ第8大学にて開催されたプルードン研究会(Société P.-J. Proudhon)の年次大会に参加していたときのことだ。会が始まってしばらくした頃、かなり高齢の紳士が、付添いの方とともに入室してきたのが目に留まった。

 翌日にコロックの参加者一人と食事を共にした際、その老紳士がピエール・アンサールであることを知らされた。アンサールが20世紀のフランス社会学において、またこの日仏社会学会にとっても重要な存在であることは言うまでもないだろうが、彼はプルードンやサン=シモン研究についても貴重な成果を多々残しており、プルードン研究会の創設者の一人でもあった。彼は1922年の生まれであり、私がお見かけしたときにはすでに90歳を超えていたことになる。なおアンサールの逝去の報に触れたのは、その2年後の2016年のことであった。

 アンサールに限らず、ある時期までのプルードン研究を牽引したのはC・ブグレやG・ギュルヴィッチなどの社会学者であったことは興味深い事実である。プルードン研究という観点から言えば、これらの「社会学的」研究を現在の観点からいかに評価するかは一つの論点である。また翻って、これら社会学者にとっての重要な参照項であったプルードンを出発点とすることで、20世紀フランス社会学史の一断面を描くこともできるだろう。

  アンサールにせよ、彼の師であるG・ギュルヴィッチにせよ、今なら社会思想や社会哲学と呼ばれる分野をも包摂しつつ展開された彼らの仕事について、いまだ十分な検討がなされているわけではない。純粋に現役の思想としてでもなく、他方では単なる過去の遺物としてでもなく、学史に位置づけることによってその意義を浮き彫りにする作業が求められるだろう。
金山準(北海道大学) 2017.8.23


no.33 バスティーユ広場の5年前

 フランスでは5月にマクロン政権が誕生したが、大統領選で思い出すのは、5年前、オランド大統領が誕生したときのことである。

 当時パリ留学中だった私は、久々の左派大統領の誕生に沸くバスティーユ広場へと赴いた。広場へ向かうメトロはすでに人で溢れており、その熱気が、反対側のシャルル・ド・ゴール広場方面へと向かうメトロの静寂と好対照をなしている。その空気はサッカーの試合の後のようで、まるで、パリの東側が西側に勝利したかのようでもある。広場には、発煙筒を焚く人、バス停の屋根にあがって見物する人、メトロの標識のうえで踊る人、おまけに、屋台を出してケバブを売っている人までいる。三色旗だけでなく、レインボーフラッグやアルジェリアの旗がはためいているところから、左派の勝利が感じられるが、政治的な出来事というよりむしろ純粋に「祭り」という印象を与える。

 もちろん、そこに集まっていたのは、フランスのごく一部の人にすぎず、そのうえそのような中で成立したオランド政権は、フランス国民の期待に応えたとは到底言えないものであったから、その盛り上がりは、単なる「ぬか喜び」だったのかもしれない。しかし、その「祭り」の場にいると湧き上がってくる独特の感覚、今まさに社会が変わろうとしている、あるいは変わるかもしれない、という感覚は今でも忘れられない。大統領など変わっても世の中変わらない、という見方にも一理あるとは思うが、それとは別に、あの場には社会が変わることに期待をかける人々の、潜在的なエネルギーのようなものが顔を覗かせていたような気がしたのである。




赤羽悠(東京大学大学院) 2017.8.9


no.32 タルドの村とジョセフィン・ベイカーの城

 パリ政治学院歴史センターにあるガブリエル・タルドのアーカイブでの調査をはじめて、ほぼ10年になろうとしている。ここにあるタルドについての草稿は、もともとはペリゴール地方のラ・ロック=ガジャクにあるタルドの暮らしていた館にあったものを譲られたそうだ。  

 もう四年前のことになるが、私を含むタルド研究者3名と、プルードン研究者1名、つまりは友人4人で、タルドの館と墓を見に行くべく調査旅行に出かけたことがある。ラ・ロック=ガジャクは名前の通り岩壁に張り付くようにある小さな村で、目の前をドルドーニュ川が流れ、フランスでもっとも美しい村のひとつにも選ばれている。旅行の目的地としてもちょうどよいはずだった。

 この旅行はトラブル続きだった。出発当日に大雪が降り列車が動かず、何時間も待つこととなった。現地では、国際運転免許証をもつAくんに運転してもらい、サルラからラ・ロック=ガジャクまでレンタカーで向かった。着いてみると、美しいはずの村はシーズンオフのために誰一人おらず、郵便局さえ閉まっている寂しい光景がわれわれを待っていた。誰もいないので場所を聞くことができず、仕方がないのでグーグルマップを信じてタルドの墓を探して山中を車で走っても見つからず、あげくに山奥で立ち往生しみなで後ろから車を押してどうにか脱出するといった事態にも陥った。けっきょくタルドの墓は見つからなかった。

 だが、どのトラブルもなぜか苦にならなかった。石川三四郎やエリゼ・ルクリュのいたドンムの坂道のやたらと強い風や素晴らしい見晴らし、サルラの小路やタルド像とともに、旅行のなかの出来事のすべてが楽しい思い出だ。

 ひとつだけ残念だったのは、ミランド城に行けなかったことだ。伝説的なダンサーであり歌手でもあるジョセフィン・ベイカーが買い取り、世界の孤児を養子にとり「虹の部族」として育てていた古城だ。さほど遠くないところにあったのだが、当時はこのことを知らず、訪れることができなかった(ジョセフィン・ベイカーについては、荒このみさんの著作『歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー』や、おそらくは彼女をモデルとしているダンサーが出てくる、映画『愛と悲しみのボレロ』を見てほしい)。日本人女性と進駐軍兵士とのあいだに生まれた孤児もふたり、ミランド城に暮らしていたはずである。

 もし、もう一度タルドの墓をみつけにいくときには、女性差別的・人種差別的な男たちの眼差しに晒されながら、ときには翻弄し、抗いつづけた彼女の残した未来の跡をぜひみてみたいと思っている。  


ラ・ロック・ガジャック

風景
中倉智徳(立命館大学) 2017.7.26


no.31 「ライシテ(laïcité)」という語の初出をめぐって

 手元の仏仏辞典Le Petit Robertを引くと、「ライシテ(laïcité)」という語の初出は1871年。「1789年以来フランスはライシテの国で……」などと言われるが、新語の登場は第三共和政の到来を待たなければならない。私自身そのように繰り返し説明してきた。  

 昨年夏のこと。語史研究の観点からライシテについての博士論文を準備しているというヴェロニカ・ティエリ=リブロさんにお会いした。「ライシテ」の語を用いた1849年の史料を見つけたというので驚いた。彼女はデジタル化された資料をiPadに入れて持ち歩いていたので、その場で見せてもらった。  

 これはぜひ論文にと、そのときこちらが言ったことを覚えていてくれたのか、論文が発表されると連絡をくださった。書誌情報は次の通り。Véronica Thiéry-Riboulot, « Nouvelles attestations précoces pour les mots laïcité et laïcisme », L’Information grammaticale, n° 152, 2017, pp.26-30.  

 1849年9月2日のヴァール県議会の議事録をひもとくと、トゥレルという名の人物が、公教育委員会の報告者として、初等教育に関する「自由、無償、義務の必要性、そして国家から俸給を受け取る教員のライシテ」について発言している。  

 「ライシスム」(laïcisme)の語についても新たな発見があったことを論文は教えてくれる。従来は次のように理解されてきた。(1)宗教改革期の英国で教会内における俗人の影響力の増大を「ライシズム」(laicism)と呼ぶ英単語が18世紀末に生まれ(New English Dictionary, 1796)、それが1830年代末までにフランス語化された。(2)公的制度から宗教を取り除く意味が1870年代に加わった。  

 ところが、ティエリ=リブロによれば、「ライシスム」という仏単語は1795年のテキストに見つかる。ロベスピエールの恐怖政治後、聖職者不在の教区で俗人がミサなどを執行することを「ライシスム」と呼ぶ用法である。すると、英語の「ライシズム」が実は仏語の「ライシスム」からの借用かもしれない事態になってくる。  

 英仏語どちらが先かは確定できないようだが、いずれにせよ革命期の1790年代に英仏海峡の両側で新しい言葉が一部で使われていた様子が窺え、興味深い。  

 それにしても、語史研究におけるGallicaとGoogle Booksの威力である。Le Petit Robertにおける「ライシテ」初出の年号も、そのうち変わるかもしれない。   

伊達聖伸(上智大学) 2017.7.12


no.30 デモで出会ったN君のこと

 少し前までフランスに留学していたので(現在も在籍中)、フランスで起きていることを知ろうと、街頭で行われるデモにはときおり足を運んでいた。ロマの強制退去に抗議する、高校生の多いあるデモでのこと。

 解散地点にたどり着いたころ、高校生のなかから誰からともなく「このままデモを続けよう」という声が上がった。高校生たちは興奮した雰囲気のまま、近くのリヨン駅の構内へとずんずん進んでいく。僕も彼らの熱気に押されて「これは行くしかない!」と後を追った。なるほど、これは線路を封鎖しようとしているのか……と事態を理解し始めたころ、後ろを見ると大量の警官が迫っている!僕たちはあっというまに取り囲まれて地べたに座らされ、身動きできない状態になってしまった。こ、これはかなりまずい状況なのでは…。周りに事態の切迫性について聞こうと思っても、動転しているのでフランス語がうまく出てこない(情けない)。

 絶望的な気持ちになろうとしているまさにそのとき、耳に入ってきたのはなんと日本語で僕に呼びかけてくる声だった。聞けば、イナルコINALCOで日本語を勉強している学生だという。僕たちはこれからどうなるんだろう、とたずねてみると「大丈夫」とのこと。実際、まもなく警官による拘束状態は解かれ、特に逮捕者もなくデモはそのまま解散という流れになった。

 この窮地をきっかけに、僕はイナルコのN君とよく話すようになる。Zaitokukaiの存在をはじめとして、日本社会の現状についてすでにかなり知っているN君は、そうした話題についてさらに語り合える相手を求めていたのであり、僕もまた日本語に助けを求めつつフランスの活動家の話を聞けるのは、とても興味深い経験だった。マニアックなN君に岩波文庫の戸坂潤『日本イデオロギー』をプレゼントしたら大喜びしていたのは、楽しい思い出だ。あの日のデモでの行動は実に不用意であったけれど、僕は思わぬ収穫を得ることになったのである。フランスにもどる機会があれば、さまざまに揺れている最近のフランス社会を彼がどう見ているのか、じっくりと話をしてみたいと思う。     
  
笠木丈(フランス社会科学高等研究院) 2017.6.28


no.29 Bangladeshi Man in Paris

 パリの地下鉄の通路で果物を売っているのは、大概はバングラデシュ人である。日本で働いていたバングラデシュ人のひとりにパリで邂逅したとき、彼も地下鉄の果物屋だった。

 彼だけではない。日本に出稼ぎしていたもうひとりのバングラデシュ人からも、思いがけず「今パリにいる」と、私のフランス滞在中に電話があった。2007年のことである。国に帰ってからアパレル企業の社長として成功し、パリの見本市に出展するためだという。その後CamaïeuやJenniferのニットを受注するようになった。パリの取引先の社長とともに私も接待してもらい、近くのバーで美味なカクテルで乾杯した。経済エリートになればEUの国境をいとも簡単に越えられるのだ。目眩のような酔いを覚えた。

 それから3年後に連絡をくれたのが、冒頭の知人である。日本から強制送還されたのちに、再来日してすぐに捕まってしまい再度強制送還されてから、音信不通になっていた。なんとパリにいて、難民申請をしたという。難民認定は難しいと思われたが、他にフランスに移民する方法はない。知人の果物売りを手伝いながら細々と生活していた。さらに2年ほどたって、スキャンした難民認定つきの滞在許可証がメールで送られてきた。仕事もみつかり、ハラル・チキンのファーストフードの厨房で働いているという。18区のシャトールージュの駅を出てすぐ、バルベス大通りに面したChicken75という店である。一昨年訪問したときは妻と子ども2人も呼び寄せ、カシャンに政府が難民向けに借り上げたホテルで生活していた。二間ありキッチンもついている。そこで彼の妻が振る舞ってくれたカレーのおいしさは一生忘れられないものだった。

 スティングのEnglish man in New Yorkをつい口ずさんだ。Oh, I’m an alien, I’m a legal alien。そう。彼らは日本では非正規移民だったが、パリでは正規移民なのだ。よかった。  
      
稲葉奈々子(上智大学) 2017.6.14


no.28 モンローとゴッホ

 昨年暮れ、乗り継ぎ便待ち合わせのため、朝から晩まで、アムステルダムでかなりの時間があった。しばらく前から、邦訳が出たばかりの大冊、スティーヴン・ネイフ/グレゴリー・ホワイト・スミス『ファン・ゴッホの生涯』(国書刊行会)を読んでいたこともあって、私の足は自然とゴッホ美術館へ。

 途中、ダム広場を通り過ぎようとすると、新教会の壁面には大きくマリリン・モンローの顔が・・・・・・どうやら、モンロー生誕90周年を記念する展覧会をやっているらしい。彼女も生きていれば、介護施設の世話になっている私の義母と同い年か。オランダ国王の戴冠式も行われるプロテスタント教会で、セックスシンボルとなるアメリカの女優展とは物珍しい――不意に浮かぶ思いとともに、ついつい教会に足を踏み入れる。第二次大戦中、軍需工場で働くモンローの姿。1954年にジョー・ディマジオと新婚旅行で訪れた日本、続いて向かう朝鮮戦争の慰問。1962年のケネディ大統領誕生パーティー――数々の映画とは別に、モンローのそうした姿を一覧すると、背景には戦後史が鮮明に浮かび上がってくる。

 その後、当初の思惑どおりゴッホ美術館を訪れた後、空港まで戻るとき、モンローとゴッホにはいくつかの共通点があることに気づいた。①二人とも30歳代で亡くなり、代表作が短期間に集中している。②一般的には自殺とされるが、他殺説もある(ネイフとホワイト・スミスの著作は、ゴッホ他殺説を綿密に裏付けている)。③ともに顔が、誰もが知るアイコンとなる。

 それから、モンローにもゴッホにも、独特の親しみや懐かしさを感じさせる何かがあるのではないか。できることなら友達になりたい、一度「マリリン」「フィンセント」と呼んでみたい――そう思わせるものが二人に共通してある。実際にはマリリンは、大物野球選手や劇作家、大統領や司法長官を夫や愛人にしたわけだから、友達になるにもそれなりにセレブでないと・・・・・・フィンセントの場合、ちゃんとつき合うのはかなり厄介そうだ。ゴーギャンも手に負えなかったわけだし。弟テオと同様、相当金をせびられそうだ。でもアルルの酒場で出会ったら、ぜひ一杯おごらせてもらえないかと声をかけたい――日暮れの早いアムステルダムで、妄想は進む。




北垣徹(西南学院大学) 2017.5.31


no.27 カンギレムとブルデュー

 フーコーは、カンギレムを、レジスタンスに参加しナチスに処刑されたその同僚カヴァイエスとともに、サルトルやメルロ=ポンティの「経験、感覚、主体の哲学」の系譜に対置される、「知、合理性、概念の哲学」に位置づけている。この対比は、カヴァイエス自身が、「数学の哲学」に関してフッサールの「意識の哲学」を批判し、自らの哲学を「概念の哲学」としていることを拡張し、フランスの文脈に適用したものであろう。科学的合理性の抑圧を告発する(マルクーゼ)のか、科学の展開それ自体における合理性を解明する(エピステモロジー)のか、なお先鋭な課題である。主体論的な西欧マルクス主義を排する、より客観主義的なマルクス主義が席巻した哲学的背景でもある。ただし、カヴァイエスと比べれば、カンギレムには、生命における規範性を探求する、生の哲学者としての相貌もある。

 ブルデューは、指導教授であったカンギレムの下で博士論文を書かず、68年に復活するまで二人の交流が途絶えていたことが知られている。アルジェリアでの研究や『遺産相続者たち』などからうかがえるのは、若きブルデューの主体の問題への関心である。ブルデューは、その知的キャリアの中で、主体の哲学を相対化しつつも、そこに求めた問題意識を別の在り方で貫き、合理性の哲学を知的基盤としつつも、社会的なものの領域をフィールドとしたといえよう。カンギレムとブルデューの軌跡には、知的哲学的潮流のこのようなせめぎあいが関わっている。

       
櫻本陽一(日本大学) 2017.5.17


no.26 「闘う研究者(chercheurs—militants)」としての使命
    :ピエール・ブルデューからの影響 

 2015年夏、全国の大学で安保法案に反対する有志の会がつくられた。新しい大学に移り間もない私が意を決し、発起人として数少ない知り合いに声をかけ、有志の会を立ち上げ、はじめてホームページをつくり、学生と教員合同の学内集会を開き、数々のデモに参加するという一連の行動には、大学院以来ずっと研究を続けていたピエール・ブルデュー影響があったと思われる。

 ブルデューは2000年の最後の来日の講演のなかで、ネオ・リベラリズムに対抗するために「闘う研究者chercheurs—militants」になる必要性を説いた。講演会の席の隣にいらした堀尾輝久先生と15年後の「安保法案に反対する学者の会」で偶然にお会いした時には「お互いchercheurs-militantsだね、ブルデューさんもきっと喜んでいるよ」と声をかけていただいた。堀尾先生は法案通過後の現在も安保法制の違憲裁判の原告として法廷に立っている。  

 ところで、ブルデューのネオ・リベラリズムへの対抗構想である「トランスナショナルな社会国家論」に対して「政治的敗北」、「理論的な敗北」という評価がある。この構想が「ヨーロッパ社会運動協議会への呼びかけ」に十分に取り入れられなかったという点で「政治的敗北」だとしても、決して「理論的敗北」ではない。むしろ社会権を擁護・強化する社会国家の再創造こそがネオ・リベラリズムに対抗軸になると確信している。この構想を日本社会の「子どもの貧困問題」に即して発展させることが、今の私の「闘う研究者」としての仕事である。



ブルデューさんの墓参り(2012年9月)
小澤浩明(東洋大学) 2017.5.2


no.25 コルシカ島のワイン造りとブドウ品種 

 ワイン大国フランスでも、地中海に位置するコルシカ島には特徴がある。フランスには300以上ものAOC(原産地呼称統制)ワインがあり、うちコルシカ島には9つのAOCがあるが、その条件に挙げられているのが、ブドウの地元品種でワインを醸造しなければならない、というものである。

 フランスワインは、カベルネ・ソヴィニョン、シャルドネなどの有名品種が用いられている。しかし、このような品種は米国や豪州、あるいは南米のチリやアルゼンチンなど新大陸のワイン生産国でも栽培されている。

 一方で、コルシカの二大地元種は、シャッカレール(Sciaccarellu)、ニェルッチュ(Niellucciu)である(日本のワイン紹介本などでは「スキアカレロ」「ニエルッキオ」などと書かれているが、これは誤りであり、現地でこのように発音されることはない)。これに周辺地域(南仏、サルディニア島等)でも栽培されるベルメンティーヌ(Vermentinu)を加えたものが地元種とされている。

 素人眼にはその外見上の違いはあまりよくわからない。しかし、1960年代ワイン増産期に、島でも多くの収量が見込めるカベルネ・ソヴィニョンなどが優先的に大量植樹されたが、1980年以降のワイン価格暴落とEU生産調整により島の農業が打撃を受けたことで、1990年代以降、地元品種への見直しが進むことになる。

 こうした独自品種の追求こそが、今日のコルシカワインの品質と独特の風味を維持しているのである。


ニェルッチュ
長谷川秀樹(横浜国立大学) 2017.4.19


no.24 シクラメンの絵 

 実家には、シクラメンの小さな油絵が飾られている。だいぶ前に母が、実家のある団地群の一角で開催された初心者向け無料講座で描いた作品だ。先生が1カ所だけ手直ししたのは、鉢植えの影だったそうだ。  

 子供のころ私は、母が中古で揃えた画集を眺めるのが好きだった。印象派の異質さに心惹かれ、のちに印象派の誕生には同時代の技術革新が影響したと学んだ。大学の美術史の講義では、〈実物そっくり〉に撮影できる写真機の登場によって、絵画の独自性を追求する新しい芸術運動が起きたことを、また、院生時代に訪ねたオルセー美術館では、乾燥しがちな絵の具の品質改善によって初めて、屋外にキャンバスを持ち出して描く写生が可能になったことを、鑑賞者として学んだ。  
 
 しかし、説明されるまで私は、シクラメンの絵の斬新さを実感できずにいた。
 「こうすると」──母は、鉢植えの影を手のひらで覆い隠した。
 「まあ、悪い絵じゃないけど、凡庸なわけよ。」  
 暗く写実的だった鉢植えの影を、講師の先生は鮮やかな緋色で、横に伸びる短い直線へと塗り直したそうだ。ほらね、と母が手を外した途端、目の前の油絵は、鉢植えの重さとそれを支える影の強さのバランスを回復し、色彩の美しさが際立つ、見違える作品へと変わった。その瞬間、描き手が新しい様式に出会った衝撃を、すなわち〈実物そっくり〉であることの陳腐さの発見と、そう描いて褒められてきた学校的価値観の崩壊とを、母の視点を通して追体験した気がした。  

 芸術作品に関するブルデューの諸研究に触れると、このときの母の説明が思い出される。



シクラメンの絵
三浦直子(神奈川工科大学) 2017.4.5


no.23 忘れられる記憶 

 2014年夏、南仏ニースに20日ほど滞在した。バカンスの真っ最中で、街を歩く人びとはみなビーチサンダルを履き、夕方になると波が押し寄せるかのように海岸から人びとが上がってきた。ニース・ヴィル駅は毎日、近隣の観光地に出かける観光客でごった返し、オシャレすぎる鉄道乗車券の自動販売機の周辺では、購入方法がわからない観光客たちが互いの切符購入を手伝う姿が見受けられた。人々から感じる解放感と余裕が、フランス第五の都市の豊かさを象徴しているようだった。

 この年の8月15日、『ル・モンド』には、「6月6日のノルマンディー上陸作戦が、8月15日のプロヴァンス上陸作戦を集合的記憶の中に仕舞い込んできたが、この解放70周年記念はそれ[プロヴァンスの記憶を]取り戻させてくれる」との記事が掲載されていた。

 けれども、同日夜のプロムナード・デ・ザングレ(海岸沿いの遊歩道)では聖母マリア昇天記念日が祝われていて、翌日のニース駅では第一次世界大戦記念式典があった。そのプロムナード・デ・ザングレの中央には、19世紀に北アフリカ諸国を建国したフランス人が、同諸国の独立を経て、1962年以降ニースをはじめとするコート・ダ・ジュールに帰着したことを顕彰する記念碑が建っていた。集合的記憶が交錯する時と場を体験することになった。

 昨年(2016年)7月14日フランス革命記念日に、このプロムナード・デ・ザングレで、北アフリカ出身の若者によるトラック・テロが起きたことは記憶に新しい。ニースはこれから何を集合的記憶にしていくのだろうか。



2014年8月14日のプロムナード・デ・ザングレ

プロムナード・デ・ザングレにある記念碑
横山寿世理(聖学院大学) 2017.3.22


no.22 民主主義と思いやり

 先だって開催されたISA Vienna Forumで報告してみた。テーマは「なぜ日本では民主主義がうまくいかないのか」。こういうことを論じるならそれ相応の準備をしてからの方がいいに決まっているが、RC25(Language and Society)のDiscourse in Practice: Microsociology of Social Exclusion and Controlというセッションにエントリーして採用してもらえたので、あまり考えなしに話してみることにした。

 報告の要点を乱暴にまとめてしまうと「『思いやり』を強調しているうちは民主主義は定着しない」となる。他者を思いやること自体は多くの文化圏にも共通の美徳と言ってよさそうに思うが、その思いやりが民主主義を阻害するというのはどういうことか。「思いやり」を二種類に分けてみることで説明をつけようとしてみた。ひとつは「求められたらそれに応じる思いやり」、もうひとつは「求められる前に求めに応じる思いやり」である。

 この二種類のうち後者を日本社会に特徴的なものとした。「思いやり」の強調が昂じると「求められたら負け」つまり「求めが言語化されたら負け」という事態が生じる。思いやりを持つと自負する人は、相手から求めがある前に、相手の求めているものを察してそれを提供できなければならない。「言われるまでわからない」のは思いやりを欠いていると言われても仕方ない状態なのだ。これは翻って「思いやられる側」をも拘束する。何か「思いやり」を言語化するということは、その相手に対して、オマエは「言われるまでわからない」=「あるべき思いやりを欠いた」人間だと宣告するに等しいのだ。

  社会の成員がそれぞれの都合を出し合い、それらの間で妥協点を見つけるのが民主主義だとするのなら、そもそも自分の都合を表明すること自体が他の成員への攻撃となるような社会に民主主義は機能し得ない。かなり乱暴な議論になったのは否めないが、それでもそこそこの反応があったのだから、他者への配慮というのは案外やっかいな問題として残りつづけているのかも知れない。
       
藤吉圭二(追手門学院大学) 2017.3.8


no.21 Fête de la moisson 

 “収穫祭”とでも訳されるであろうイベントを案内するポスターに、満月と稲穂が描かれている。よく見ると、満月の中には、大きく“추석”というハングル文字があり、エッフェル塔を背景に、韓国の民俗芸能“サムルノリ”を踊る人物たちが描かれている。

  じつは、これは2013年9月に、パリにあるJardin de Séoul, dans le Jardin
d’Acclimatation で開催された在仏韓国人の祭りのポスターである。“추석”とは、漢字では“秋夕”と書き、旧暦の8月15日に行われる行事で、日本でいえば“中秋”に当たり、満月は中秋の名月を表している。韓国では、秋夕を挟む数日間は連休となり、ちょうど日本のお盆休みのように、遠く離れた故郷に戻り、祖父母や両親、親族と過ごす大切な行事となっている。  

 2013年4月から一年間、パリで過ごした際に、この年、9回目となるFête de la moissonを見る機会を得た。パリのテコンドー教室の生徒たちによる演武や伝統舞踊団の公演、韓国から招待したピアニストや音楽家たちの演奏があり、会場には韓国料理を販売する屋台が立ち並ぶなど、まさに“民族まつり”の様相を呈していた。

 芸術や文学を学ぶ留学生として、あるいは海外進出する韓国企業から派遣され、あるいは軍事政権時代に政治的な理由で国を追われるようにしてやって来た者など、それぞれさまざまな経緯で、故郷を遠く離れてパリに辿りついたコリアンたちが、ここに集っているのである。

 “コリアン・ディアスポラ”という新たなコンセプトで、コリアンが集住する国や地域での研究が進んでいる。しかし、移民政策や歴史的経緯から集住した国や地域以外については、あまり顧みられることはない。しかし、そうしたところにも、故郷を遠く離れて暮らす、コリアンの生活がある。




山泰幸(関西学院大学) 2017.2.22


no.20 天啓

 すみません。新しいネタがないので、昔話をします。  
 
 社会思想史や経済学史のあたりを研究領域にしていたのですが、1990年ごろ、たまたまフランスにいたとき日仏社会学会のコロークを覗きに行って、それを機にこの学会に入りました。当時は全体の会員も少なく、とりわけ九州地区の会員はごく少なかったおかげで、やがて理事会にも入れてもらいました。  
 
 私は、日仏社会学会に入った後で、研究者として生きる姿勢、ものの見方や考え方ががらりと変わりました。天啓のようなものを授かったわけです。  
 
 日仏社会学会の大会や理事会のあとの「飲み会」で、みなさんから聞く話のおもしろかったこと。それまでの私は、研究というのは砂を噛むような思いでするものだと思いこんでいた。ところが、みなさんは研究を楽しそうにやっている。そうか、研究ってのはおもしろがってやるもんだ、とわかった。  
 
 また、私はみなさんから知識人の役割というものを教わった。われわれはさんざん「勉強」をしてきたが、「だから何だ?」と、そのあたりを問われた。わかったふうなジャーゴンをふりまわして、いっちょまえの学者のふりをしても、それは何の意味もないと教えられた。いっしょうけんめい社会学を勉強してきた人間は、頭の使い方を鍛えてきたわけだから、どんなものごとにたいしても「凡庸でない」見方ができるようになっている。私はそのことをみなさんから教えてもらいました。  
 
 しかし、天啓のようなものを授かりながら、社会学のなかに入りきれなかった私はやはり今でもバカのままです。
       
斉藤悦則(元・鹿児島県立短大) 2017.2.8


no.19 Ma Petite “Imâm” ( 私の愛しい「イマーム」さん)

 80年代初め、チュニジア南部を旅行中のある夏の朝だった。宿の周りを散策していると、羊を連れた子ども達に出会った。アラビア語で話しかけ他愛ない話をしていると、年長の少女が「あなたムスリムでしょう」と言う。なぜかNonと言っては悪いようで「まだだ」と答えた。少し怪訝そうな面持ちだったが、思い直したように「私の言う通りに言える?」と尋ねる。私のアラビア語力を試そうというのだろう。まあいいか、と頷く。「Bismilllāh rahmānil Rahîm alhamd lillāhi「(仁慈あまねく慈悲深きアッラーの御名によって)」。コーランの最初の文言だ。私も暗唱する。開巻の章を一通り済むと「じゃ、次にこう言って!」と彼女。「'ashhadu 'an lā 'ilāha illā 'llāh wa 'ashhadu 'anna Muhammadan rasūlu 'llāhi(私は『アッラーの他に神はない。ムハンマドがアッラーの使徒である』ことを宣言する)」。「今度はシャハーダ(信仰告白)か。それも楽勝。」と、復誦したら、少女は我が意を得たとばかりに、「tawwa enti musulim!(あなたはもうムスリムよ)」と宣うた。ああ、そういうことだったか。この娘は「まだ」と答えた私をイマーム(導師)に代わって導こうとしたのだ。正式な条件は整っていないが、私はこのおしゃまなイマームに半ば改宗させられたのかもしれない。この少女も今は良いお母さん、いやもうお祖母さんかな。


小さなイマームとそのいとこたち


ひつじと少女
石丸純一(いわき明星大学) 2017.1.25


no.18 ハノイのギロチン

 ベトナムを訪問するというと「フランス語ができると便利でしょう」、と問われることがしばしばある。答えは“Non”である。80歳も後半以上で高等教育を受けた人のなかには流ちょうなフランス語を話す人もいるが、それより若い世代はロシア語、さらに若い世代のほとんどは英語しか話さない。

 それでもフランスからベトナムに「輸出」されて日常生活に定着した文化はたくさんある。私の知っている単語だけを並べてみても“Ô tô”“Phim”“Pho mát”など。 それぞれ“Auto”“Films”“Fromage”に対応しているといえば、音との関連でなるほどと思われるだろう。もちろん両者の意味も同一である。19世紀の後半から20世紀の前半にかけての植民地支配は、実に多くのものをベトナムにもたらしたようである。  

 ハノイ市中心近くにあるホアロー監獄は、1896年にフランス人によって建設され1954年まで使用されたとある。現在は一部分だけが博物館として保存され、敷地の大部分は「ハノイ・タワー」という超高級コンドミニアムとなっている。そこには“máy chem”なるものが展示してある。直訳すれば「首切り機」、すなわちギロチンである。博物館の説明文にはフランス人が実際に用いた2台のうちの一つで、1930年台に反仏闘士の首を刎ねたと書かれている。

 この監獄はベトナム戦争時にはアメリカ兵の捕虜収容所として使用され、待遇の良さから彼らから’Hanoi Hilton’とも呼ばれたそうである。アメリカ兵たちはフランス人が残した監獄に厳重に囚われることにはなったが、幸いなことにギロチンの露と消えることは免れたようである。




嶋根克己(専修大学) 2017.1.11


no.17 「無題」

 以前、集合的記憶論の祖であるモーリス・アルヴァックスについて短い論考を書いたとき、アルヴァックスの生涯を論じた著作(Annette Becker, Maurice Halbwachs. Un intellectuel en guerresmondiales, 1914-1945”, Paris, Viénot, 2003)を参照したことがある。アルヴァックスが息子と一緒に強制収容所に送られたことなど、それまで余り紹介されていなかった過酷な生涯を知ったことも衝撃であったが、よりショッキングだったのは、強制収容所内のアルヴァックスの様子を描いたデッサンが、数枚、掲載されていたことである。たとえば、“Le Professeur Halbwachs(du Collège de France) subit les soins, quelques jours avant sa mort.”との文章が添えられたデッサンには、全裸のアルヴァックスと医師らしき人物が描かれている。

 ここまで悲劇的な結末が描かれた著名な社会学者はいただろうか。このデッサンでわれわれが見るのは、何だろうか。自分はまだうまく言語化できていない。ただ、少なくとも、アルヴァックスが残した集合的記憶論を、遙か日本で受け継ぐ者として、その責務を強く感じ至ったことは確かである。


(Becker 2003, 452)に掲載されたデッサンの一部を筆者が撮影したもの。
今井信雄(関西学院大学) 2016.12.21


no.16 フランスと原子力

 2016年11月22日早朝、福島県沖でM7.4の地震が発生した。3.11以降の余震をのぞけば東北沖を震源とする地震では最大規模であったものの、被害は比較的軽微であった。しかし運転停止中の福島第二原発では計器の誤作動により、使用済み核燃料の冷却が一時的に停止したという。原子力発電は、常に事故の危険と隣り合わせである。

 ところでフランスが世界一原発依存度(70%超)の高い国であることはよく知られている。そのフランスでさえ3.11の報は原発世論に影響を及ぼした。ギャラップが2011年におこなった国際調査によると、日本やフランスを含め多くの国で原子力発電に対する支持が減少した。この調査結果は当時盛んに報道されたが、改めて二次分析( 注1)をおこなってみると興味深い傾向も浮かび上がる。

 表1に示すように、フランスでは所得の高い者ほど原発を支持する傾向が有意である(なお、日本では所得と原発への賛否に相関がみられない)。フランスが階級社会であるとともに、原子力が経済(成長)と軍事両面で、共和国の独立性を維持する手段として市民に支持されていることが背景にあるだろう。もちろん、2012年におこなわれた大統領選挙では、富裕層を優遇してきたサルコジへの批判をうけ、新たに大統領となったオランドは、原発依存度低下を公約に掲げてはいた。しかしその翌年以降の世論調査( 注2 )によれば、(原発依存度を下げる方向性は維持しつつも)、原発そのものへの支持は3.11以前の水準に再びもどり、周辺国から寄せられる原発停止の訴えもフランスは退け続けている。

 同調査から読み取ることのできるもう一つ興味深い傾向は、表2に示すように、フランスでは福島第一原発事故の情報を入手する手段がインターネットであると答える者のほうが、若干ではあるものの原発への支持が低下する傾向にあった(ちなみに一般的には若年層ほどネットによる情報収集をおこなうが、年齢と原発支持の相関をみると若年層はむしろ原発を支持する傾向が有意である)。この結果は幅広い社会的事実の一側面に過ぎないとはいえ、ネットはテレビや新聞とは異なる意見形成をもたらすのかもしれない。

 それはネットを通じたフクシマに関するデマや不確かな情報にもとづく反応の可能性もある。3.11の直後に『ル・モンド』に掲載された(オイルショックを受け電力自給を実現するため原発推進を担った)ジスカールデスタン元大統領のインタビュー( 注3)にあるような、「現実的にフランスが選択しうるのは原発のみである」という立場からすれば、そのような反応は「不見識」ということになるだろう。しかし他方で、メディアパルトのような質の高いネットジャーナリズムによる報道も含め、ネットが他のメディアとは異なる意見形成をうながす可能性も示唆しているのではないだろうか。

注1)Gallup International. Global Snap Poll on Tsunami in Japan and Impact on Views About Nuclear Energy, 2011. ICPSR31574-v1. Ann Arbor, MI:Inter-university Consortium for Political and Social Research [distributor],2011-09-26. http://doi.org/10.3886/ICPSR31574.v1
注2) http://www.developpement-durable.gouv.fr/IMG/pdf/Chiffres_cles_de_l_energie_2014.pdf
注3) http://www.lemonde.fr/japon/article/2011/03/24/vge-l-atome-tranquille_1497828_1492975.ht
ml


前田至剛(流通科学大学) 2016.12.07


no.15 クリオ坑の週末

 サンテティエンヌ市Saint-Étienneは、リヨンから南西に60km離れた場所に位置しており、炭鉱のほか工場や企業が立ち並ぶ産業都市として栄えた。欧州サッカー連盟UEFA元会長ミシェル・プラティニ氏が在籍したASサンテティエンヌのチームの本拠地でも有名だ。ユニフォームの胸元には、カタログ通販大手の地元企業マニュフランス社Manufranceがスポンサーロゴを付けていた。そのことからもまちの繁栄ぶりがうかがえる。だが今は、その繁栄ぶりはかつてほどでもない。

 市の中心部から離れた高台にある炭鉱跡は現在、クリオ坑博物館Puits Couriot Museé de la Mineとしてその周辺の公園とともに整備されている。訪れると公園は人々の憩いの場となっていた。昼ごはんを持ち寄って食べる家族、水たまりになった炭鉱電車のレール跡を走る子どもたち。そのほか地域の有志によるコンサート、砂絵づくり、ペタンク大会など、様々なイベントの期間中であった。しかし、利用者はせいぜい多くて30~40人程度。日曜に私たちが訪れたこともあってか、完全にのんびりした気分につつまれていた。

 一転して、博物館の坑道ツアーは白熱したものであった。10人前後の参加者を前にして、ガイドの20代とおぼしき男性はマニュアルを持たず、完全に個人の権限に任されていた。まず子どもには面積や高さ、さっき見た時代との違いは?と質問して、興味を引き出す。そして2~3つ全体説明をしたあとで間髪入れずに「質問をどうぞ」と言う。すると、大人が自分の関心のままに矢つぎ早に質問しはじめる。そしてガイドがそれに答えていく。私も質問してみたが、1~2つにとどまってしまった。

 このやりとりはツアーの各スポットで繰り返され、2時間以上の長丁場になった。集団であろうとガイドとは常時、対話し続ける存在であった。ガイドからの話を聞くことだけに慣れきっていると、その違いに圧倒される。博物館の敷地内の公園の昼下がりに、ガイドと白熱する議論。そのような文化遺産の活用法は、参加者も主催者ともどちらも日本と異なるものであった。   

サンテティエンヌ・クリオ坑跡
西牟田真希(関西学院大学) 2016.11.23


no.14 誰に対する「戦争」なのか?

 2015年11月に起きたテロの後、戦争という言葉が飛び交った。「これは戦争行為である(オランド大統領)」「 我々は犯人を追い詰め、破壊する(ヴァルス首相)」。 それから約2ヶ月後、ヴァルス首相とユーモリスト J. フェラリとの「戦争」をめぐる激論が話題を呼んだ。人気番組« On n’est pas couché »で、駆け出しの芸人が首相を相手に批判を繰り広げたのである。犠牲者追悼の式典にアリ・ボンゴ(ガボン大統領)が招待されたことを指摘、「あなたが率いるのは独裁者を擁護する政府ですよね?」。民主主義や共和国の価値を守る戦争だと言うが独裁者も支援するのですね、と皮肉った。

 「『戦争状態だ』なんてあなたは言うけど、僕たち戦争なんてしてませんよ?僕たちはコンサート会場で「撃たれた」側なんですよ?ほら、このスタジオで銃や武器持っている人います?『イスラム教徒ぶっ殺してやるぜ』、なんて人います?いませんよ?」 首相は食い下がるが(「いったいどの戦争の話?」)、フェラリはひるまない。

 「戦争状態にあるのは『あなた』だ。戦争をしてるのはあなたの政権であって僕たちじゃない。僕はムスリムに対する戦争なんてしませんよ!」一瞬息をのむ沈黙、そして会場からは大きな拍手が起こる。2,3のブーイングは拍手にかき消され、苦笑する首相の顔が大写しになる。YouTube映像は一週間で100万回近く再生されることになった。

 フェラリが批判したのは、ムスリムを攻撃対象とする政府というよりは、イスラムというテーマを都合良く操作する政治家の欺瞞と考えるべきかもしれない。それでも問いは残る。テロとの戦争が叫ばれる現在、誰が、誰に対して戦争をしているのか。何を守るー攻撃するー戦争なのか。戦いはいつ始まりいつ終わるのか、勝敗はどう決まるのか。多くの問いがまだ宙づりのままだ。   
鶴巻泉子(名古屋大学) 2016.11.08


no.13 ボルドーのユニクロ

 今年の9月に数年ぶりにボルドーを訪問した。私が留学していた15年前と比べると街は大きく様変わりした。2004年ごろから市内に新型トラムが敷設され、現在まで順次路線が延伸されている。

 今回の訪問で驚いたのは、ついにあのユニクロがボルドー市内中心部に出店したことである。私が訪問した日の数日前に開店したということで、市内にはラッピング広告を施したトラムが走り回り、多くの人々が赤いロゴの入った紙袋を下げて歩いていた。パリには何年か前に出店していたはずだが、ついにボルドーでもユニクロのものを手に入れられるようになったのかと感慨深く思った。私が留学していたころは、日本のものはだいたいパリに行かないと手に入らなかったものだが、今はラーメンもボルドーで食べられるようになるなど、かなり様相が変わってきている。

 また、市内中心部にある大劇場の近くに、新たにショッピング・モールができており、さまざまなブランドのショップが軒を連ねていた。そのなかに「極度乾燥(しなさい)」で知られるイギリスの服飾ブランド「スーパー・ドライ」のショップもあり、現地の友人は日本のブランドだと思い込んでいたようだった。

 今回の滞在ではデュルケームが住んでいた家も見に行ってみたが、その前のバス停にもユニクロの広告があった。グローバル化の波はすでにデュルケーム家のすぐ前まで来ている。      
  

デュルケームが住んでいた家の前のユニクロ広告(2016年9月)
池田祥英(北海道教育大学) 2016.10.26


no.12 デュルケムかデュルケームか

 このシリーズのタイトルにも出てくるDurkheim はデュルケムなのか、デュルケームなのか?
 
 はっきり言って、どちらでもいい。大きな問題ではない。が、私は断固として「デュルケム」派である。とはいえ、「デュルケーム」で統一してくれと言われれば、すぐOKする。要するに、どちらでもよいから。大きな問題ではないから。が、私はほんとうは「デュルケム」派である。

 なぜ「デュルケム」派なのかといえば、きだみのるが「デュルケム」派だからである。気違い部落シリーズの作家であり、『社会学と哲学』をはじめとするフランス社会学の翻訳者でもある。ファーブルの『昆虫記』も訳している。
 
 学生時代、『社会学と哲学』の翻訳は絶版であり、京大の米田庄太郎文庫にあった山田吉彦訳にお世話になったものである。その後、大学の国文学専攻の友人の世話で、早稲田大学で社会学を専攻していた彼の友人が早稲田界隈の古書店で私のために見つけてくれた。今でも、引用はそれを用いている。

  山田吉彦=きだみのるは私の好きな人物のひとりである。彼が住んでいた八王子の部落にも行ってみたことがあるし(単に行ってみただけ)、大船渡の尾崎岬に記念文学碑も見に行った!きだみのるで科研報告書も書いた。もう15年以上も前のことである。

 この春、嵐山光三郎がきだみのる論を書いた。編集者と作家の関係であったらしい。久しぶりにきだみのるに触れて、おもしろかった。デュルケムでもデュルケームでも、あるいはデュルカイムでも何の問題もないだろうが、嵐山本に触れて、私が「デュルケム」派であることはきだみのる経由であることを思いだした。
       
中島道男(奈良女子大学) 2016.10.12


no.11 象徴と憲法

 周知のように日本国憲法は第一条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」としている。ここに社会学的テーマが潜んでいることに、この夏、気づかされた。

 1946年11月の憲法公布、もしくは翌年の施行とともに、「天皇」は国政に関する権能はもたない「象徴」(原語はGHQ草案の“symbol”)となった。では、国事行為以外なにもしなくても、天皇は象徴なのか。法的にはYESであろう。特定の天皇の振る舞いにではなく、制度的カテゴリーとしての天皇の地位自体に象徴性が付与されているからだ。
 
 しかし今上天皇自身の考えは、自らの「象徴」たる地位に安住せず、日々その存在証明に勤しむべきだという、ウェーバー・テーゼ的(=『プロ倫』的)なものであることが明らかになった。「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(2016年8月8日)で、「日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅」も,「天皇の象徴的行為として,大切なもの」であり、「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来」たことが示されたのである。

 さらに、行為と感情の交流なくして象徴なしという今上天皇の信念は、デュルケーム宗教社会学的な真実をもふくんでいる。デュルケームのシンボル論によれば、象徴が何かを喚起する力は、象徴を認知し享受する者たちの行うコミュニオンや集合的沸騰により充填される。ただし、日本国民の下からの沸騰の記憶が生々しかった憲法公布時からすでに70年が経った。今や事態は逆転し、天皇自身が慰問の旅によって各地の国民に小さな沸騰を生起させ、象徴の喚起力の維持に務める状況にある。しかし「全身全霊」の傾注を要する「象徴の務め」を生身の人間が生涯遂行することは困難であり、ここに今上天皇の深い悩みがある。

 制度的かつ人間的存在としての「象徴」を法が成文的に創造し、それをリアルに存在・持続せしめることはできるのか。さらにいえば、社会学でも普遍的なものとして用いる「象徴」概念自体が、実は西欧固有の発想・観念ではないのか……。憲法第一条はさまざまな問いを喚起する。
       

夏2016・京都 智積院
小川伸彦(奈良女子大学) 2016.09.28


no.10 「衰退」の語り方 -地方から見るフランスの現在-

 昨年と今年、産炭地の地域再生の日仏比較研究を行うため、フランスのノール=パ・ド・カレー炭鉱を訪れた。ベルギーとの国境付近にあるこの炭鉱では、60年代頃から石炭から石油へのエネルギー革命等により採炭活動を縮小させ、90年に完全に閉山した。基幹産業を失った地域社会はしだいに衰退し、人口減少や高い失業率、低所得に悩まされるようになった。再生への願いをこめて、2012年に炭鉱遺構の世界遺産登録とルーブル美術館分館の開館を実現させた。これら一連の「衰退と再生」の経緯には日本の産炭地との共通点も多く、比較研究の対象として面白いと見込んでの訪問だった。

 しかし実際に歩いて見たかぎりでは、日本の産炭地と較べてそれほど厳しい状況には見えないのである。ぼろぼろになった建物もシャッター街も見当たらないし、人口減少もおおむね緩やかである。にもかかわらず、衰退は厳然たる事実として語られている・・・

 世界遺産登録を推進した団体の関係者は、誇張した言い方だけれどもと断りつつ、「メディアはこの地域を『劣等人種』の住む暗黒の場所と見なしてきたけれど、世界遺産登録はそのまなざしを変えた」と、世界遺産登録の効果について語った。また、この地域について研究する若いイタリア人の人類学者は、「この地域にも確かな生活があり、失業率は全国水準より高いとはいえ大多数の人々は働いている。それなのにメディアは否定的なイメージばかり強調する」と、若干の憤りを交えつつ語った。そのイメージが影響してか、この地域のある自治体では、2014年に国民戦線の市長が誕生している。

 どうやら、この地域について語られる「衰退」と、私自身が現地で感じた印象とのズレを生み出した要因の一つは、メディアの影響と言えそうである。

 メディアが社会の衰退を繰りかえし語り、それによって人々の不満や不安、恐怖が煽られ、それを背景にポピュリズムの政治が台頭するという、多くの「先進国」で見られる光景は、フランスでも見られる(おそらく来年の大統領選挙でも、それが顕在化するだろう)。ある社会の衰退が語られるとき、どのようなイメージが「既成事実」となり、それにより何が見えにくくなっているのか?それらを抜きに衰退を語ることは、不十分であるだけでなく時として危険ですらある。ノール=パ・ド・カレー炭鉱の訪問が気づかせてくれたのは、そのことだった。   
       

双子のぼた山の見える風景(ルース・アン・ゴエル)
松浦雄介(熊本大学) 2016.09.14


no.9 映画図書館(La Bibliothèque du Film)で調査する

 パリにある映画図書館(La Bibliothèque du Film / BiFi)には、映画に関する資料、図書、雑誌、フィルム、DVDなどのデジタル映像、脚本、撮影資料、ポスター、チラシなどに加えて、その他関連文書がアーカイブ化されている。  
 
 ここに収蔵されているもののなかには、それがまだ歴史的資料になる前、つまり当時実際に使われていた頃に、関係者によって走り書きされたメモのようなものまでも保存されている。しかも、調査スペースでは、予約をすれば誰でも原本を閲覧することができるのである。

 私が、この図書館を訪問したのは、ヴィシー政権期のフランスにおけるアニメーション制作に関する資料収集のためであった。政府とアニメ制作会社のあいだで取り交わされていた文書が同時代の資料とともに綴じられていた。フランスのプロパガンダアニメーションについての著作があるセバスチャン・ロファ(Sébastien Roffat)もまた、ここで缶詰になって調査していたとのことだ。  

 アニメ制作会社が政府に宛てたタイプライター打ちの文書をみていると、印刷は薄いものの、フランスでアニメ産業を興すために、国家からの経済支援が必要不可欠であることを説得しようと奮闘する様を感じとることができる。当時、アニメ市場はアメリカのディズニーやフライシャーによって独占されていたが、経済支援が継続的になされれば、フランスもそれに匹敵する作品が制作できるようになるということが訴えられていたのである。それだけでなく、実際にどの程度資金が必要なのか、具体的な金額も記されている。今も昔もアニメ制作には金がかかるのだ。    
 
 第2次世界大戦期にアニメ産業が勃興した国家は多いが、それに関する資料が閲覧できるかたちで保存されていることはほとんどない。アニメーションが研究対象となって日は浅いが、まずは、資料のアーカイブ化が必要だろう。   
       

複写した資料(複写を希望する資料番号を黄色のしおりに書いて依頼する)
雪村まゆみ(関西大学) 2016.08.24


no.8 看護(ケア)は女の仕事か

 看護学生に社会学を教えていた当時、女性だから看護職をめざすという多くの学生に出会い、看護史に関心を持った。かつて看護婦と呼ばれていた看護師のルーツは、修道女だと言われている。しかし、それは、歴史のある一時期のことであって、修道女出現の前には、修道士つまり男性が看護を担っていたのである。なるほど、キリスト教の奉仕の精神から考えれば、修道士が鍛錬の一つとして、他者へのケアをしていたのは当然のことであろう。また、失楽園以来、エバを祖とする女性たちは、ほとんど歴史の中で語られることはなかったのであるから表舞台には登場しない。

 しかし、ルソーが『エミール』(1762)で男性や子供をケアする存在として女性を評価する頃、女性の産む機能は拡大解釈され、「母性」が本能として登場するようになる。バダンテールが『母性という神話』(1980)で述べるように、「母性愛の表れ方はというものは過去4世紀の間に大いに」変化したのである。

 かのデュルケームも、『社会分業論』(1893)の中で、性的分業の誕生について言及している。「はじめ性的機能にのみ限られていた性に基づく労働は、だんだんとほかの機能にも拡大していった。かなり前から婦人は戦争や公務から退き、その生活は家庭の内部にすっかり集中されている」と述べ、女性が「愛情的機能を独占」するようになった変化について記している。つまり、女性の役割が歴史のある時点から他者への世話に向けられてきて、生まれつきのものではなく、社会的に作られてきたものだということを社会学の父は教えてくれているのである。      
         
佐藤典子(千葉経済大学) 2016.08.14


no.7 ひとり親家族の養育費と面会交流

 2011年度の全国母子世帯等調査によれば、日本では、母子世帯の子どもの内、別れて暮らす親から養育費を受け取っている子どもは19.7%、別れて暮らす親と面会交流をしている子どもは27.7%だけ存在する。つまり、養育費の受け取りや面会交流は子どもの権利であるにもかかわらず、日本では、このような子どもの権利が十分に守られていないのだ。

  この点、家族の多様化が進み、ひとり親家族が多いフランスでは、これらの支援が充実している。各地の家族手当金庫(caisses d'allocations familiales:CAF)は、養育費の回収と、回収できなかった場合の立て替え払い(あるいは手当の支給)を行っている。また、CAFは、面会交流支援を行っている非営利組織に対して財政援助を行っている。ひとり親家族のための施設も、面会交流支援を積極的に行っている。私が訪れたパリ郊外にある、非婚の母親と3歳未満の子どものための施設にも、おもちゃがたくさん置いてある面会交流専用の部屋があった。また、フランスの非営利組織である「SOSパパ」によれば、原則、子どもと同居する親が、別居親と子どもとの面会交流を1回拒否すると執行猶予付きの罰となり、2回拒否すると実刑となるらしい。それ以外に、罰金も課せられる。(ただし、このような判決にならない場合もある)

 ひとり親家族が増加する日本においても、養育費の回収(立て替え)を行うフランスのようなシステムを早急に構築する必要があると思う。また、非営利組織が、面会交流支援の場所を確保し、安定的支援を行えるように、公的機関による財政援助を活性化させる必要があると思う。
              

パリ郊外にある非婚の母親と子どものための施設
近藤理恵(岡山県立大学) 2016.07.27


no.6 モンパルナス墓地のデュルケーム

 パリ14区にあるモンパルナス墓地は、緑が多く、開放的な雰囲気がある。ボードレール、サルトル、ゲーンスブールなど、各界の著名人が埋葬されているので、ちょっとした観光地になっている。目当ての墓石を探すには、入り口の事務所で地図をもらうのが賢明である。

 ここに社会学者のデュルケームも眠っている。墓石は、観光客が集まる場所から少し離れた一角にある。謹厳なデュルケームに似つかわしい質素な灰色の墓だが、「近代社会学の創設者」にしてはなんだか寂しいので、前回訪れたときは、近くの花屋で買った薔薇を捧げてみた。不思議なコントラストがうまれて、彼が少し微笑んでくれたような気がした。

 私たちは教科書で出会った学者を歴史上の人物のように考えてしまうものだが、実際に墓の前に立つと、かつてそのひとが生身の人間であったという事実に改めて気づかされる。私はデュルケームの作品を批判的に読解する仕事に取り組んできた。だが、批判するなら、書かれていることはもちろん、語ろうとして語りきれなかったことまで読みこんで批判すべきではないか。死者は面と向かって反論できないのだから。そんなことを考えた。

 2017年はデュルケームの没後百年にあたる。日本ではデュルケーム学派の仕事を再検討する共同研究が進められている。次は、花束だけでなく、何か語るべきものを携えて、モンパルナスの墓地を訪れることができるだろうか。
              
岡崎宏樹(神戸学院大学) 2016.07.13


no.5 “便利さ”が優先?

 パリの街中を歩くと,ここ数年で大きく様変わりした光景が目に映る。「コンビニ」風の小型店舗があちこちに出現したことである。これらの店舗では,レストランやカフェでの食事に比べるとかなり安い食品が販売されており,店頭に豊富な果物を揃える店もある。職場における食事時間の減少や外食費の高さ,調理済み食品に対する味覚の慣れなどが,都市部に出現した「コンビニ」風店舗の拡大を下支えしているのだろう。きれいに小分けされたパック詰め商品はスーパーなどで販売されている量が多めの商品よりも価格はやや高くなる。それにもかかわらず,フランスの消費者は「近くで手軽に買える一人分」の商品に“便利さ”を見出しているのかもしれない。また,旅行者にとっては,既知の店名を掲げた看板を目にすると安心して入店できるというのも事実だ。

 「コンビニ」風店舗の急増の背景には,出店規制の緩和と小売業界の激しい競争がある。低価格商品を扱うドイツ資本のAldiやLidlに対抗すべく,カルフールなどの大手小売業が小型店舗を急激に増やしている。

 消費者にとっての“便利さ”の追及は,裏返せばその“便利さ”を提供するための労働に携わる人々を増やす。雇用増加の面では時にはプラスかもしれないが,労働の質の面から考えると必ずしも喜ばしい事態ばかりではない事態が生じがちである。フランス社会の今後の動向がとても気になるところである。
            
森脇丈子(流通科学大学) 2016.06.30


no.4 「人間らしいコミュニケーション」の技術化

 ユマニチュードとハートーク、こう聞いてピンとくる方はどれくらいおられるだろうか。

 「人間らしいコミュニケーション」に関わるこの二つのニュースに、最近相前後して接し、気になっているところである。前者ユマニチュード(Humanitude)は、フランスから現在日本に導入されつつあるケア技法に関するもの。後者は音響メーカーのヤマハが開発した、機械音声の自然応答技術HEARTalk。
  
 ユマニチュードは、150を超える実践技術から成り立つ、知覚・感情・言語による包括的コミュニケーションにもとづいたケアの技法である。ネグリチュード(Negritude)、すなわちマルティニーク島出身の詩人・政治家のエメ・セゼールが1940年代に提唱した、植民地に住む黒人が自らの“黒人らしさ"を取り戻そうと開始した活動に思想の源泉がある。こうしてユマニチュードは、認知症介護における人間疎外的状況の克服の技法・哲学として構想されている。見つめて、話しかけ、優しく触れるを基本とした150以上の技法によって、「人間的な絆」がつくりだされる。「魔法のような」劇的効果を、認知症介護の現場にもたらすという。
  
 一方、HEARTalkの場合はこうである。ヤマハによれば、人間同士の会話は呼びかけ側の発音の強弱など「韻律」に合わせて、応答者も発音の韻律を変化させることで自然な会話が成立している。HEARTalkはこのしくみを機械音声に反映させることで、人間との自然な会話を実現している。機械が、「間を読めない人間」以上の、人間らしい返答をする可能性が出来しつつある。ここに技法化されたユマニチュードが加わればどうなるのか。「人間らしいコミュニケーション」という領域における、人間の役回りがどこにあるのか、日々、それが垣間見える瞬間を見つけることに心を砕いている。贈与論のモースならどう答えるだろうか。   
            
林大造(神戸大学) 2016.06.08


no.3  Black-Blanc-Beur

  1998年7月12日、パリ。エメ・ジャケ監督率いるサッカーフランス代表が、決勝戦でブラジルを破り、フランスサッカー史上初めて、ワールドカップ優勝を成し遂げた。
 
 この試合で人々の注目を一身に集めたのは、勝利を決定づけた2得点を記録する活躍を見せたジネディーヌ・ジダンであった。試合後、彼へのまなざしは、ピッチ上でのパフォーマンスだけではなく、彼の出自にまで向けられることとなる。というのも、彼の両親は、アルジェリア北部にルーツを持つ移民であり、その子供としてマルセイユに生まれたジネディーヌ自身もフランスとアルジェリアの二重国籍を持つ人間であったのだ。ジダンの他にも海外県や旧植民地にルーツを持つ選手たちが多く所属するフランス代表チームに向けてメディアや知識人たちから発せられた称賛は、必ず しも、己の肉体のみを拠り所にスポーツを行う選手たちへのそれではなく、往々にして、人種的・出自的に様々な背景を持つ個人が、三色旗の下に集い、世界一になったのだ、という非スポーツ的な文脈の中で語られた。

 ワールドカップ優勝から2年後に行われた欧州選手権も制覇したフランスチームは、文字通り、フランスを「代表」する存在になったのであるが、2002年日韓ワールドカップでの不本意な成績を始めとして現在まで、主たる国際大会で目立った成績を収められていない。近年のフランスでの出来事を見ていると、スポーツにおける結果とともに、サッカーチームが体現してきたフランスまで、過去の歴史の中に消え去ってしまったかのように感じられてならない。  
               

中津匡哉(パリ第7大学東アジア文明研究センター) 2016.05.25


no.2  魔法の言葉、もしくは寛容について

  冬のブルターニュの寒空の下、学生たちを引き連れて、郊外の訪問先企業へ向かう貸し切りバスを待っていた。一連の手配をしてくださった交流協定校の担当者、フランソワーズさんと一緒に。  
 十分が経った。バスは来ない。二十分が経った。バスは来ない。三十分が経った。バスは来ない。  
 バス会社に問い合わせるためオフィスに行ったフランソワーズさんが戻って来た。
 「バスが壊れました。修理中です。修理が終わったらすぐに来るそうです」
 屋外の寒さを避けて学内のカフェテリアで待つうちに、いつの間にか一時間半が経っていた。バスは来ない。  
 フランソワーズさんが戻って来た。「バスはまだ直りません。仕方ないです。何事もスケジュール通りには進みません。ここはフランスですから……」  
 「代わりのバスはないんですか? 地域最大手のバス会社だって言ってましたよね?」と不満げにいぶかしむ学生たちに私は――「お金を飲み込んだまま無反応を決め込む自動販売機」「目的の階には頑として止まらないエレベーター」「ホーム転落防止壁の真正面で扉を開くメトロ」などなど、何週間も、何ヶ月も、時には永久に是正されることのなかったあらゆる不具合を思い起こしながら――万感の思いを込めて、すべてを許す魔法の言葉を吐く。「ここはフランスだから……」  
               


ブルターニュの冬の寒空、モンサンミッシェルを臨む
菊谷和宏(一橋大学) 2016.05.11


no.1  フランス人とは誰か 

 『シャルリー・エブド』襲撃に始まるフランスの一連の「テロ」は、世界を揺るがしている。しかし、フランスにおける「テロ」事件は、昨日今日に始まったことではない。かつて、アルジェリアがフランスから独立しようとしたとき、その中心的組織FLNも、アルジェを中心にテロ活動を行っていた。その経緯は、映画『アルジェの闘い』に見事に描かれている。

 「イスラム教徒の仇を討つ」などの理由で、パリでさまざまな襲撃事件を起こした「テロリスト」の多くは、アルジェリア系フランス人である。フランスで、アラブ人でありながら、フランス人であるという両義性を生きるとは、どのようなことなのだろうか。また、アラブ系フランス人と、必ずしも常に接する機会があるわけではない、「フランス系フランス人」「ヨーロッパ系フランス人」は、アラブ系フランス人にどのような思いを抱いているのだろうか。

 私の友人のひとり(フランス系フランス人)は、父がアルジェリア戦争時に兵役でアルジェに行ったことは知っているが、父はそのときのことをいっさい話さず、また今でも当時の悪夢にうなされることがあると語っていた。フランスとアルジェリア、そして二つの国のはざまにいるアルジェリア系フランス人のあいだには、いまも想像を絶するような溝があるように思われる。          

                           
荻野昌弘(関西学院大学) 2016.04.22

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